起床。女将さんにいったとおり、6時前に新町温泉裏を発つ。
本日最初の霊場、恩山寺とその次の19番立江寺まではサクサク進む。
立江寺の門前写真は撮り忘れたが、仲良しの鳩はきちんと激写している。ちなみにこの鳩、人に慣れ過ぎていて絶対に逃げない。もはや犬猫のようになでられる。警戒心どこいった。環境は動物の本能まで変えてしまうようである。
そして次が今日の山場、20番鶴林寺である。初めての遍路ころがし12番焼山寺を越えた後に訪れる、第2の遍路ころがしと呼ぶ人もいるらしいこれまた山の上の難所である。
そこに挑む前にコンビニで買ったクリームパンを遍路小屋「寿康康寿庵」で頬張る。この遍路小屋、歩き遍路にとって必需品の電気、トイレ、水、ガスまであり、日程によってはここに宿泊するお遍路さんも多いらしい。
遍路小屋近くのバス停にいたおばあさんに挨拶をすると、たくさんの飴と、後からわざわざオロナミンCを持ってきてくれた。鶴林寺に挑む前に、その気持ちで精が出る。
まず鶴林寺に行くためには舗装された硬いアスファルトを何キロも歩かなければならない。その後足がへばってきたところに、山越えが待っている。山道は基本的に坂ばかりだ。
坂。坂。坂。
ひたすら登る。
鶴林寺に着く頃に、正直参拝とかどうでもいいくらいにはヘロヘロである。
!?!?!?
やっと着いたと思っても、寺の中でまた更に登らされる。ドSである。
登りがあれば下りも当然ある。鶴林寺からの帰りの道はパンパンに炎症を起こしている太ももに、登り以上のダメージを与える。
歩き遍路をしていると、自分がなぜこんなにも非効率なことをしているのか考えない人はいないと思う。車でなら数十分で行けるところを、身体を酷使して、1日かけて行くのだ。一方、四国遍路はいろいろな回り方がある。そして色々な事情もあるだろうし個人の好きな回り方でいいと思っている。歩き遍路の人で、車で回る人を卑下する人が一定数いるが、他人のことをとやかく言わずに、自分のことにだけ集中すればよいのだ。自分のことに集中していれぼ、他人の回り方にいちいち口出ししている暇はない。
僕自身のことで言えば、僕は四国にスタンプラリーをしに来ているわけではないのだ。
人に会いに来ているのだ。霊場を回るという一応のお題目はあるものの、正直それは名目上の話で、僕にとってのお遍路のメインストリームは、やはり「人」なのだ。
そんなことを思いながら本日の野営場所である大井小学校跡地に到着。なんだか懐かしさと、一抹のエロさを感じる。
――数時間後
!?!?!?
!?!?!?
!?!?!?
いやいやいやいやいやいやいや。
夜こわすぎ。
しかも1人である。周りも山に囲まれた過疎地域なので、もはや自分がこの山に取り残されたのではないかとさえ思える。姥捨山(おばすてやま)現象とはこのことだ。
そして猛烈にお腹は減っているけれど、辺りには当然のごとく何もない。本日、パンとお菓子しか食べていないというアイドルばりの食生活に加え、廃墟の小学校に独り、更には、山の方なのでかなり寒い、という悪条件が加わりもはや笑えてきた僕は、何を血迷ったのかこの状況を楽しもうと、屋根の下ではなく、校庭にフライシートを被せずテントを張った。
そう、星が綺麗だったんだ
僕はロマンチストよろしく、空を眺めて気持ちを紛らわせようと思ったのだ。
――数分後
さむ
結論から言うと天体観測開始5分で寒すぎて星どころじゃなくてマジで凍死するんじゃないかと思い、速攻テントにフライを被せて寝袋にくるまった。星が綺麗とかアホか。
人間極限状態に置かれると、死について考えてしまうものなのだろうか。寒さと戦いながら、生と死は太極図の陰と陽のように、常に隣り合わせなものなのではないかと思っていた。
確実な生、もしくは限りなく99.9%位の確率で担保されている生は、本当の意味では、生きているとは呼べないのではないか、と。
メメントモリ的な、常に死と隣り合っているからこそ生の実感を持つことができるということを今まさに、というか歩き遍路中はほとんど常に実感している。
山道はいつ死んでもおかしくないなと言う思う箇所がたくさんあるし、実際に死者も出ているらしい。僕の身にも今後そういうことが起こりうるかもしれない。だからこそお遍路さんはいつ死んでもいいようにと、白衣と呼ばれる白装束を身にまとい、歩を進める。
生きるためにはまず死ぬこと。「自分はどう生きるか」という問いの前に、まず、自分自身が本当の意味で生きているかどうか、命を燃やしているか、輝かせているか、ということを確認すること。死んでいる人間に、どう生きるかと言うことを問いても、死人に口無しでまるで意味がない。まずは自分が、ほんとうに生きているかどうかということを確認し、その上で初めて吉野健三郎さんよろしく「君たちはどう生きるか」という問いに、真正面から、真摯に、向き合うことができるのではないだろうか。
勿論、メメントモリ的な死の意識を日常生活の中で常に持ち続けるというのは難しい。しかし、僕のように、自分が精神的に死んでいるのであれば、その意識を持ちやすい環境へと自分を連れ出してあげることが必要なのだと思う。
行動をしまくる必要はない。環境だけ変えさえすれば、あとは自ずと付いてくる。身体的な死でも精神的な死でも構わない。
今、何かに魂を震わせているか。昨日何かに吠え、今日何かに魂を震わせ、明日に向かって、命を燃やしているか。
とりあえず寒い。身体を燃やして暖めたい。
【支出】食費700円、リップ300円
【歩行距離】38.3キロ
【参拝霊場】18.19.20