ふざけんじゃねぇよ、神様。

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気付けば四国遍路を結願してからもう約1カ月が経ってはいるが、未だに結願の記事を書けずじまいでいる笑

結願後、高野山にお礼参りに行き、その後一度実家に帰って2週間ほど過ごした。その後遍路中に逢う約束をしていたご夫婦に会いに香川に飛び、その後長崎に宇宙人に会いに行き、大分にある母方の実家に挨拶に行った後、これまたふと思い立って震災復興ボランティアをしに熊本へと入った。


そして崇城大学ボランティアヴィレッジでの1週間の活動が終わり、今、博多行きのバスに乗っている。しかし晴れやかな気持ちというよりも、一抹の不完全燃焼感が残っている。それはきっと熊本が復興するまで残るものだと思う。完全な復興というものはないのかもしれないけれど、大地震が起こったという事実は厳として存在しているということを、自分の目でしっかりと確認した。


世の中に起こる出来事には、無駄なことは何1つなく、1つの出来事をどう解釈するかにかかっているとよく言うけれど。正直、神様の野郎ふざけんじゃねぇよ。という気持ちもある。なにしてくれとんねん。試練と呼ぶにはあんまりだよ。

でも、起こってしまったことは変えられない。僕たちは、それを受け止めて歩いていかなければいけない。

さっきも言ったけど、完全な復興はないのかもしれない。失った人は戻ってはこない。でも、そんな中で、希望となり得るかもしれないのが、人のあたたかさだった。少なくとも僕はそう感じた。


他人の痛みを自分ごととして捉えられる人が、誰かのために何かをしたいと思う人が、人種、宗教、国境を越え、熊本に集まっている光景を目の当たりにして、人類皆兄弟の思想の素晴らしさを肌身に感じた。

失った人は戻ってこない。その悲しみは決して消せるものではないし、むしろ消してはいけないと思う。けれども他人の痛みを感じられる人との交流の中で、その悲しみを、ほんのヒトサジ、すくい取ってあげられるのかもしれない。死ななくてよかった人まで、殺さなくてすむのかもしれない。


だからこそ僕達は、痛みを背負って生きていかなくてはならない。痛みに無関心になってほしくない。他人の痛みを、自分ごととして捉え、人類皆兄弟だと思って欲しい。このメッセージは自分に対する戒めでもあるし、これを読んでいる「あなた」に言っていることでもある。

最近、各地で頻繁にテロが起こり、その度にメディアでひとまとめに伝えられる死者数の裏側に存在する、一人一人の人生を思うと、とても、とても悲しくなる。やっぱり、どうしたって、人間が死ぬということは悲しい。それが無差別なテロによるものなら悲しいし悔しい。

テロの話とは少し違うけれど、目的は同じなのに、手段が異なるために対立してしまうことが、今回の活動の中でも何度かあった。しかし、そこで必要なのは暴力ではなく対話であり、対話の中でからしかお互いの意見を止揚させることは出来ない。

行政指導とNPO指導では組織の構造上対立するのは言ってしまえば当たり前だし、逆に言えば行政には行政にしか出来ないことが、NPOにもまたその機動力を生かしてNPOにしか出来ないことがある。結局変えられることが出来るのは自分自身だけであるように、復興の1番の近道は人類皆兄弟の思想を一人一人が持ち、そして一人一人が自分自身にオーナーシップ権を持って行動していくことなんじゃないかと思う。


バスはもう熊本を出た。何度も言うけど完全な復興というものはないのかもしれない。けれども熊本の外から想い続けることをやめてはいけない。

僕はボランティアとは感謝されるためにやるものではなく、単純に、自分がやりたいからやるものだと思う。だから、ボランティア参加を他人に押し付けることはしないけれど、僕の経験をシェアすることで、これを読んでいるあなたのフックにかかり、あなたの人生の選択肢が1つ増えたら嬉しいなあと、単純に、そう、思う。

ボランティアは被災者の方々にエネルギーを分けに行ってあげているつもりが、逆にこちらがエネルギーをもらっていることばかりなことに気付く。楽しいというとニュアンスが違うかもしれないが、ボランティアは確実に心に火を灯すような、エネルギーをもらえる。

ただやはり人間楽しくないと続かないし、なかなかその活動は広がらないものだ。だからこそ間口を広げるために、入り口はボランティアというよりもエンターテイメントから入っていけるような活動にしたらいいんじゃないかと思う。自分が単に楽しくてやっていた活動が、気づけば社会性を孕んでいるものだったと、後から気付くくらいがちょうどいいんじゃないか。

今は漠然と、そのぼんやりとした何かを、形にするお手伝いがしたいなぁと、バスの車中で思っている。

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