リアル13巻から読み解く、言葉にはしない心理描写

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リアル13巻を読み終えた。

本巻は、主にプロレスラーのスコーピオン白鳥を主軸に据えた物語だった。

ストーリー自体は王道。

元は2人でタッグを組み、タイトルを縦(ほしいまま)にしてきたコンビが

一方は光の存在に、一方はそれに対をなす、ヒール役として仕立て上げられる。

自分が活躍すればするだけ悪評を轟かせ、様々なものを失った末に、

自分がプロレスをする意義までをも喪失しかけたヒール役が、自己の役割を再認識するまでのお話。

そして、彼の生き様に触発された他の登場人物たちが、改めて自己と向き合うというお話。

特筆すべきは、そのヒール役の白鳥というキャラの生き様を通して群像劇的に描かれる

他の登場人物たちの“言葉にはしない心理描写”を、その画力で描き上げているところだと思う。

“言葉にはしない心理描写”と書いたけど、

井上雄彦さんの作品で言うと、バガボンドとかもセリフ数が少ないので、

何も考えないで読むと、おそらく15分位で読めてしまう。

ちなみに井上さん本人が言っていたことだけど、

思いとか観念的なものを言葉に表すということは非常に難しく、なにか別の方法はないかと模索した末に

バガボンドで「聾唖(ろうあ)の小次郎」というキャラが誕生したらしい。

で、それを加味して考えると、セリフのない一コマ一コマが、

どのような背景情報をもって描き出されたのか、ずっしりと重く考えさせられるのだ。

登場人物たちは寡黙であるが、背景情報は寡黙ではないのだ。

そこら辺を自分なりに咀嚼しながら読んでみると、非常に面白かった。

以下、個人的に感銘を受けたシーン毎に感想をつらつらと。

【瓶のメタファー】

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各所で話題になっているけど、本作の一番の見せ場というか、見所は、

おそらく”瓶”の描写のシーンだと思う。あれは唸らざるを得ない。

本当の自分を隠し、様々な外的要因で自分を塗り固め、他者を寄せ付けなかった高橋くんは

皮肉にも事故によって、ひた隠しにしていて自己と向き合わざるを得なくなる。

障害者というレッテルが貼られ、他者から差し伸べられる救いの手は

全て同情からくるものであり、それはイコール偽善であり、

「俺はそんなものいらねぇ」というような態度で示してきた。

ここの描写のシーンで、僕は2つのことを考えていた。

1つは、救いの手を差し伸べる側のこと。

ブラックジャックによろしくの精神病棟編でも描かれていたけれど、

救いを差し伸べる方は、往々にして、【無意識という名の差別】をしていることに気づいていない。

「誰それは障害者だから、可愛そうだから、~してあげよう」

これこそが無意識という名の差別の現れである。

障害を負っている当事者は敏感にそれを感じ取る。

はからずとも、救いの手は往々にして、差別になる可能性もあるのだ。

そしてもう一つ、救いの手を受ける側のこと。

まず、この高橋くんの脳内方程式では、救いの手=同情や偽善として全て跳ね除けていたが、

それはある意味、自分が自分のことを障害者として差別していたからなのではないか。

外っ面だけを着飾っていた人間が、それをすべて失った時、

あまりにも自分という存在が小さく、無力なんだという現実を受け入れられないのだと思う。

このことは、先日この記事で書いた秋葉原事件の犯人、加藤智大にも繋がることがある気がした。

自分の瓶の中に閉じこもる。リアルは建前だと決めつけ、

リアルから差し伸べられた救いの手を跳ね除けてしまったこと。

そしてその結果、凶行におよんでしまったこと。

大本は、【本当の自分と真摯に向き合うことの欠如】が原因になっているのではないかと思う。

別に外から差し伸べられる救いの手が、同情だっていいではないか。

この前視聴した、42~世界を変えた男~という映画の中で

「同情の起源とは、苦しみを共に分かつということ」という名ゼリフがあったが、まさにそのとおりだと思う。

【強さとはなにか?】

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本作で問題提起がされていた

【強さとはなにか】という問いについて。

僕個人的には、

【強さとは、自分の弱さを認めてあげられる人のこと】だと思ってる。

強い人間なんて絶対にいないと思っているので、

だったら自分の弱さにフタをして見えなくしてしまうんじゃなくて

それを認めてあげる、肯定できる人間っていうのは、強いと思うし、

何より自分の弱さを認めてあげることが出来るのなら

他人に対しても、もっと優しくなれると思う。

僕なりの価値観はそんな感じ。

【人間はそう簡単には変われない】

本作で井上さんが記していた

「5年後か10年後、振り返った時、あの日から全てが変わったと思える、そんな日がある」について。

これに関しては、懐疑的なところはある。

確かに、脳に稲妻が走ったような衝撃的出来事はあるかもしれない。

だが、往々にして、それは一時的なものなのだ。恒常的とはほど遠い。

何かをきっかけにパラダイムシフトを起こしたとしても

それで今までの人生が変わるかどうかは、そこからの日々の積み重ねでしかないのではないだろうか。

残念ながら、人間はそう簡単には変われない。

そう、人間はそう簡単には変われないのだ。

話がそれるが、だからこそ、まずは

”自分が変われないということを認識すること”が大事なのだと思う。

僕も昔は、克己心が大事だと思い、自分を律することに重きを置いていたが

正直、一時的には変わるんだけど、恒常的には変われないのだ。

だったら、まずは自分のだらしなさを認めて、

そこからどうすればよいか考えることをスタートさせたほうが良いと思う。

そして、自分が変われないのに、他人を変えられるはずもないのだ。

他人なんて絶対に変えられない。

もし、他人を変えたと思っている人がいるのなら、それは単なる驕りだと思う。

活動家の家入さんも言っていたが、

「他人なんて変えられないのだから、何か相談を受けたとしても、

変えられないという意識を根底において(諦めの境地で)、接することが大事」だと。

「そしてその上でいくつかの選択肢を提示して、

他者のフックにかかったようなものを自ら選び取ってもらうしか無い」と。

まさにそのとおりだと思う。

話を戻してまとめると、

結局、衝撃を受けようが衝撃を受けまいが、

日々、目の前のことに全力で取り組んでいくしかないのだと思う。

そして「5年後か10年後、振り返った時、点と点だった物事が線で繋がる、そんな日がある」

ことはあるかもしれない。

【愛すべきクソ野郎どもへ】

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瓶のシーンと同じくらい刺さったのが、

白鳥が発した「クソ野郎共!」発言だ。

作中の文脈でのクソ野郎は、自分をごまかしたり、嘘をついたり

様々な要因で生きづらさを感じているすべての人達に向けた、

愛の讃歌みたいに感じた。

「(愛すべき)クソ野郎共へ」

これはぜひとも、井上雄彦さんの圧倒的画力と共に味わってもらいたい言葉である。

素直にじ~~んとくる。

とまぁそんな感じで背景情報が豊富な本作。

興味があればぜひ読んでみてください。

【リアル(井上雄彦)】