【新ブラックジャックによろしく】から考える、「善意とは欲なのか」論

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こんばんは、柳です。

今、「新ブラックジャックによろしく」という佐藤秀峰さんの漫画を読んでいるのですが、

この漫画の4巻で、主人公が「善意は欲です……」って言うんですよね。

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あなたはどう思いますか?

善意って欲望ですか?

で、これについてちょっと僕なりに考えてみたので、記しておきます。

僕は極論を言えば、“善意は欲”だと思います。

欲望といえば、一般的に思い浮かべるものは、

「いい女と寝たい」「高級車に乗りたい」「タワーマンションの高層階に住みたい」「絶対的な権力がほしい」

などの、成金思考のようなものが多いかもしれないですが、

以下にあげるような

「子供に健やかに育って欲しい」「家族に楽をさせてあげたい」「彼女を幸せにしてあげたい」「環境保全活動がしたい」

というような、人格者や篤志家的な「~したい」という善意からくる欲望も含まれるかと。

人格者的な欲望に対して言えば、それは欲望ではなく見返りを求めない無償の愛情や

恩送りや喜捨的な概念であるのではないか、と思われるかもしれないですが、

そのような意見に対して、他者を助けることで、自己承認欲求を満たすためだとか

ヒロイズムだとか、偽善だとか否定、批評されることもあります。

結局のところ、この議論は価値観の違いからくるものであって、

明確な一つの解、なんていうものはないのだけれど、

個人的には、欲の定義を、誰かに何かをしたいという奉仕欲求や、

何かを期待するというものも含めるのであれば、善意も究極的には欲望の内だと思います。

その上で(自分でも実際は欲であると理解した上で)、

理屈を述べたり、批評ばかりして何も行動しないよりは、

たとえ不純な動機であろうがなかろうが、行動して、

小さくても、何かを変えようと努めることの方がよっぽど重要だと思う。

そうして、小さな影響力の輪が、少しづつ少しづつ広がっていければ、

やがて大きな影響力を発揮することで、現実には無理だと思われるような

大きな問題を解決できる事もあるかもしれない。

とどのつまり、理由なんてどうでもいいんです。

むしろ理由に縛られるくらいなら、特別な理由なんていらない。

善意は欲望の塊だって構わない。

僕なりの考えはそんなところです。

結局主人公の価値観と似ているところがあります。

ただその反面、無知からくる一方的な善意には注意したいと思っています。

無知であるがゆえに、自分の信念に従い、自分が正しいと思うことだけを遂行し、

それが正義だと信じて疑わないような姿勢は、正直危険です。

【自分の善意が他者に迷惑をかけていると知らないこと】

作中で、ある女医さんも言っていましたが、

つまり“自覚のない悪”が偽善の定義だとするのなら、

確かに偽善という言葉にも、一理あるかもしれません。

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正義のラベルというものは、簡単に剥がれるし、剥がし変えられます。

有名な話で言うと、桃太郎は、鬼の子供側の視点から見れば、自分の親を殺した絶対悪な存在です。

ただ、正義の話をすると、結局は価値観の相違の話になってくるし、終着点は見えません。

他者とは完全に分かり合えない以上、最終的には自分の信ずる道を行くしかないと思ってます。

しかし、そのプロセスにおいて、自分が思う善意善行により、

傷つく人がいるのかもしれないという事実は知っておいた方がいいかと。

無鉄砲な正義、無知からくる正義は脆い。

先述した定義における「偽善者」にならないために、周辺関係を理解し、

きちんと無知からの脱却をしてから、自分の善意に真摯に向き合うことが肝要だと思いました。

PS

ブラックジャックによろしくは、その読者を引きつける圧倒的な筆致、

緻密な取材に裏付けられたリアリティを伴う医療をテーマにした漫画作品というだけでなく、

哲学的な問いも、読者に投げかけてきます。

だからほんとーーにもう、毎回ずっしりと重くて、

考えさせられて、漫画であるのにもかかわらず、なかなかページが進みません。(笑)

漫画を読む時間より、問題提起ごとに考える事の方に時間を割くこと必須です。

ちょっとこれは、死ぬまでに読んでおきたいシリーズに入る可能性大ですが、

とりあえず、全部読んでからまた気づいたことを書きたいと思います。

ではではー