その先を見たい、という気持ちが、僕にはもうない。

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手紙を書きたいと久しぶりに思った。

誰に宛てるわけでもないのだけれども。

もし人生に賞味期限があるのだとすれば、僕のそれはもう終わっているのだと思う。

年齢を重ねれば人間としての深みが増すなんてことはなく、細胞的にも枯れていくのみである。

大人なんだからとか、いい年して、とかの類の言葉は全く的を射ていなくて、往々にして若い人間の方が生物的には優秀だと思う。

生きる意味というものを、今までも嫌というほど考えた。

その答えのひとつとして「その先を見たい」というものがあると思う。

大きなところで言えば人類としての未来。小さなもので言えば、今携わっている仕事の未来、子供の成長、その先がどうなっているのかという未知のものに対する期待。

そういうものが、僕にはもうない。

そうなった人間が生きることに意味を見出すことはできるのだろうか。

先日亡くなった樹木希林さんが生前こんなことを言っていたらしい

「自殺した魂は、死後生きている時よりも、苦しみを味わうらしい。私は弱い人間だから、どんなに死にたくなっても、それだけはしまいと思って生きてきた。」

今まで多くの人たちが死というもののある種の甘美さに魅せられて自ら命を絶ってきた。

僕は生きるものにも死ぬものにも等しく価値はあると思う。

生きていなければ、なんてことはない。

冷静に考えて人生は長すぎる。

感情が膨張して収縮する人生に振り回され続けるのに根本的に疲れているというのもある。

「人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、 何事かをなすにはあまりにも短い。」と山月記の中で述べた中島敦が三十歳そこらで自殺してしまったのはあまりに皮肉めいている。

生きる意味を、「あなたに出会うため」とアーティストは歌い、文筆家は喪失と再生の物語を書き、画家は自身の内に眠るドロドロとした感情を創作物にぶつける。

人はそうして生きているのだと思う。意識してか無意識的にかは別として。

自身の内に抱える怒り、不満、嘆き、哀しみをどう世界に対して表現していくか。

「生きるために生きる」という状態は死んでいることと同じだ。

そう考えるから辛いんだという人もいるのだろうけど、生きるために生きるのならば、蟻と同じじゃないか。

仏教でいうところの六道があるのならば、人間として生まれてきた意味はなにか。それを追い求めてこの4年間放浪していたのかもしれない。

でも、そんなものは結局のところなかった。

幸いお金というものに関しては不自由をしなかったけれど、逆に精神は常に欠落していた。

この長い長い虚無の旅の中で彼岸と此岸をさまよう精神の彷徨をあと何度聞けば良いのか。

それら全てに蓋をして感じないように読書や映画やゲームなどのあらゆる娯楽に埋没した。

けれど、蓋をしていてもそれはある時すっと顔を出す。

そのがらんどうとした得体の知れない空虚感に襲われた時は、酒やタバコに逃避した。

でもそんなのは応急処置にすぎなくて、すぐに効かなくなっていったんだ。

もう、めちゃくちゃだ。俺は今めちゃくちゃなんだ。それでもまだ生きているのは、昔の自分からは考えもしなかった自分になっても、生きながらえているのは、ぐちゃぐちゃにもうなりようがないという現実があるからだ。ここまでぐちゃぐちゃになったなら、あとはもうどうにでもなる。20代前半に色々と経験して、落ち着くどころか精神的にめちゃめちゃの人生がある今。嵐はいつ起こってもおかしくないんじゃないかと思うからなのかもしれない。

這い上がっても這い上がらなくてもいい。人生の価値はそんなことでは決まらない。

世界の中心は自分だと思っていたあの時から、自分は世界を構成する歯車の一つにもなっていないと気づき、それでも自分が見ているからこそ世界は存在するなら、やはり世界は自分そのものであると自分を思い込ませる力こそが必要なのだと改めて思う。

死にたくなる夜があと何度訪れるのかわからない。

人生とは膨張と収縮の連続で今書いてきたことを堂々巡りであと何度味わされるのかわからない。

けれど苦しみのない人生なんて嘘だ。

必ず再生があるわけもない。

耐えられなければ死ぬしかない。

一種の博打とも言える。

それでも、安寧を求めるな。安寧を求めるな。安寧を求めるな。

いつも自分を鼓舞してくれるのは自分だった。

結局、孤独に咲くしかない。

だから夜の雨が好きなんだ。

静けさの中に抱えるあの侘びしさを抱えて生きる。生きる。生きる。生きる。

俺はまだ生きてやる。

もし耐えられなくなったら。その時は、死ねばいいだけの話だろう。

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【ふぉろーみー】