死ね、クソ野郎ども

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少年は目を覚ました。暖かな温室のような空間から自分の殻を破って世界を見ようとした。世界は動いていた。自分が存在しなくても、何事もなく、平然と、当たり前の日常を繰り返していた。世界と自分との関係性の欠如を感じた少年はすべてをゼロに返すことにした。それは突拍子もないようで、あまりにも必然の選択だった。少年は考えた。いや、考えることができた。自己の存在の価値と世界との合致性について。そして、しばらく考えてこれは答えのない問いだということに気づいた。それは、あまりにも残酷だった。答えのない迷宮に迷いこんだ少年は停滞した。線で繋がっていたはずの人生が途切れた。人生とはなんなんだろうか。「生」にも「死」にも意味がないとすれば自分は何のために生きているのか。少年は現実逃避を始めた。自己と世界の不一致を覆い隠すことにした。それは同時に自分自身から逃避するということだった。苦しかった。

――2年の歳月が流れた。少年の心は枯れ果てていた。どうすることもできなかった。

――そしてその時、呼ばれた。理由はなかった。少年は旅に出ることを決めた。 

 クソだった。世界の野郎もそこに潜む表出しない集団的無意識も全部。クソ野郎だった。自分自身を肯定できていないときに聞いた、自己啓発めいたありがたそうな言葉やフレーズがすべて薄っぺらく聞こえた。だからこそ少年は旅に出た。自分自身を肯定するために、日々を本気で生き抜くために。 

旅に出た少年は様々な人と交流した。少年はたくさんの人と会話をしたが、実際会話をしていなかった。他者との会話を通して自分自身と対話をしていた。その媒介者としての他者の存在があった。人は究極的には自分のことにしか興味がない。他者と話をしているフリをしてその向こう側にいる自分と話をしていることを知った。自己と会話するだけならば他者との関わり合いに意味はないのだろうか。けれども少年は少なからず「人間との対話」をした瞬間を経験していた。表層的ではない、お互いにノーガードでジャブを正面から撃ちあっているような――背筋にピンと軸が通るあの瞬間。残酷な世界の中での救いだった。 

少年はパスを回していこうと思った。世界は基本的にはクソだけど案外捨てたもんじゃないかもしれない、生きるに値する可能性が残されているかもしれないというパスを回したいと思った。 

 死にたい奴は死んでもいい、周りは気にしなくてもいい。どれだけ綺麗事を並べられても、自分を肯定できていない状態ではそんな言葉よりも、死にたい時は死んでもいいという許しの方がかえって救われる。だからこそ世界は素晴らしいなんて謳い文句は簡単には言えない。全ては自分を生きた結果なんだ。資本主義社会でうまく立ち回ったとか、そんな外的要因で自分を武装するのはもうやめにしないか。それよりもその力でパスを回せ。そのパスが、この世界がクソでどうしようもないと思ってる奴のフックに1ミリでも引っかかるようなことがあれば、それで十分なんじゃないか。世界がクソなら周りもクソだしなにより自分がクソだ。でもそんなクソだらけの現実を変えようと思うのなら、それが個人寄りであれ社会寄りであれ、他の誰でもない、自分が動かなければならない。正直めんどくさい。ただその他100万人以上の人々も同じようにめんどくさいと思っている。そこであなたが動くべきだとは言わないが、現状維持のクソみたいな世界を憂いても世界は変わらない。世界が変わり始めるのは世界が変わったときではなく、自分の人生(世界)の舵(かじ)を自分でとり始めた時だ。あぁなんて皮肉でめんどくさいのか。お前はどうする。世界は沈黙している。不平不満を言ったところで時間は浪費すれど見返りはない。楽に生きることを非とはしない。生き方に正解はない。大事なことはお前自身の意志だ。何をしてもいいし、間違えたっていい。人生は自由だ。死んでもいいし、生きてもいい。ただ全力で生きろ。全力で死ね。日常は永遠ではない。人間の身体は日々細胞分裂を繰り返しながら朽ちている。その上で自分に問うべきだ 

お前は昨日何に悔い、今日何に震え、明日に向かって何を吠えているか。日々を本気で生きることは難しい。自分の刃を研がなければならない。刀を抜き世界を切り落として行こうと思う。

改めて言う。世界は残酷だ。人生に意味はない。だからこそ魂を燃やし、日々を本気で生きなければならない。

って原稿用紙に殴り書きしてあったんですが正直酔っ払っててこれを書いてる時の記憶が全然ないばかりか今一番したいことと言えば「睡眠」なんですよね。

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