僕がひきこもりニートになった理由
ニートになって、もうすぐ三ヶ月が経とうとしている。
正直自分がこんな状況に追い込まれるとは、夢にも思っていなかった。
対法人相手にインターネットマーケティングのコンサルティング業務をしていたけれど
上手くいかなかったのだ。きっかけは言ってしまえば、単純な話。
でも、失敗なんて成功に向かうまでのプロセスの1つだし、
そんなことは自分でも重々承知していた。
僕がドロップアウトした理由は別にあったのだ。
事業が上手くいかなかったのは、トリガーにすぎない。
じゃあ、大本の原因は何なのかというと、
これも言ってしまえば陳腐な理由なのだが
【自分が情熱を傾けられることの不在】に尽きる。
こんな学生や、社会人1~3年目の人間がよく陥りそうなトラップに
自分がまんまと引っかかってしまった。
でも当事者の僕としては、結構深刻な問題だったんだ。
まず、この問題を見つけるまでも苦労した。
自分は努力がたりないとか、単に甘えているだけだとか、期待してくれている人の気持ちを考えろとか、
様々な理由で自分を鼓舞し、モチベーションを上げようとしていた。
でも色んな感情が交錯するうちに、気づけば、感情の洪水の中に溺れてしまっていた。
そこで、僕は一度すべてをリセットして、0から自分を見つめなおしてみようと思った。
俗にいう「自分探し」「自己との対話」みたいなもんかもしれない。
ただ、今の今まで自分探しなるものをしてみて思ったのが、
そんなものは分かるわけ無いということだ。もう無理。自分って誰って感じだ。
この時に、路頭に迷った人がイキナリ「出家します。」とかいう気持ちがわかった。(笑)
自分が何かとか、そーゆー人生の命題チックなものは分からなかったけれど、
僕が何故停滞してしまったのか、それは自分なりに解答を出すことが出来た。
それがさっきも言ったけど、
【自分が情熱を傾けられることの不在】だった。
もっと詳しく言うのなら、自分の情熱が傾けられることの不在プラスαで
自分の目標に対してのアプローチの仕方(資金調達など)が間違っていたというのもある。
フリーランスであり、自分のやることは全て主体的に選択できる以上、
与えられたことを必ずやり遂げることがイニシエーションというわけではない。
しかし、与えられたことが他の人に関与しているもの、ということで責任とかの類の人間心理が働き、
撤退出来なくなり、でもモチベーションが湧かず業務遂行も出来ないという、身動きがとれない状態に追い込まれた。
でもマクロ的に見て自分がやっていて楽しいことを仕事にすれば、
ミクロ的に見たら苦しいことも、やっていること全体は自分の好きなことだから苦労ではないのかもしれない。
じゃあ自分が本当に情熱を傾けられることってなんなのか、
そもそも自分がやっていて楽しいこととは何か。(起業したいんですけど、何をしていいか分かりませんみたいな)
そうやって答えが出るのかどうかさえ朧げな問いの、迷宮に入っていった。
ただこの時に、「始めるのは自発的にするようでなければいけない」という至極シンプルなことを、再認識した。
その上で自分の軸を見つけるためには、パラダイムシフトするような大きな衝撃を受けること。
そして衝撃を受ける為には、未曾有の地にも身体一つで飛び込んでいくことが必要だとも思った。
思うように成果が出なかったのも理由の1つだけど、それ以上に、情熱の欠如が著しかった。
情熱があれば、成果が出てなくても挑戦し続けられると思う。
それが出来ないのは、単純にお金を稼ぐことを僕自身目的としていたのかもしれない。
よく、成功するためには諦めないことが大事というけど、その反面、「損切り」というワードが頭をちらつく。
売れていないのに何年も芸人やってる人達に自分を重ねてしまいそうになった。
そうやってどんどん考えれば考える程、良く分からなくなっていった。
そして時間だけが過ぎていくうちに、僕は本能のままに、楽を求めて過ごすようになってしまう。
いよいよ本格的なひきこもりニート生活が始まった。
ひきこもりニートになってみて気づいたいこと
時間の流れが超絶早い
引きこもりニートになってみて2ヶ月くらいが経った。
余談だけどひきこもりニートやってみて思ったことの1つに、時間のスピードが超絶早いということがある。
とにかく気づいたら一瞬で1日が終わってる。
「あれ、さっき朝だったのに。え、なにこれすごい。」っていうくらい時間の早さが止まらない感覚。
思うに、思考停止状態で日々を過ごしていると、脳に汗をかかないからなんだろうと思う。
頭をつかうのって体を使うことより疲れる。
だから仕事してた時とか、1日の初めにタスクを設定して
今日使える時間からタスク1つ1つに配分する時間の計算をして、
そこまでしたら全力で一気にやってたんだけど、そうやってると1日が本当に遅く感じられていた。
たった1日でこんな数の業務をこなした、こんな質の高いものを作ったっていう満足感と
時間の流れの感じ方は反比例するのかもしれない。
逆に言えば、頭に汗をかかないで過ごせば過ごすほど、
時間の流れるスピードは比例して早くなっていくということなのかもしれない。
話を戻そう。
楽を求めて、それを正当化する
ひきこもりニートになって2ヶ月が経ち、空虚感からくる焦燥感や喪失感はあるものの
それを補完するために、具体的に何をしたらいいのか、どうすればいいのか。
わからないまま、とりあえず手持ち無沙汰なのが嫌で、何でもいいので空虚感に襲われないために
何かをしていたくて、とりあえず楽な方向へと走ってしまう。頭では、これではいけないと分かっていながら。
ゲーム、漫画、映画、本、麻雀…
確かにこれらのものから学ぶところはたくさんあると思う。
だけど……
「今」自分が最重要でやるべきことではないのは明らかだった。
コヴィー博士が提唱しているように、タスクを優先度別に第Ⅰ~Ⅳ領域にランク分けするのなら、
今の自分において、上記のほとんどのものはⅣランク(緊急でも重要でもない)以下。
それをⅡランク(緊急ではないが重要)であるかのように、脳内で正当化していた。
更に言うのならば、上記のようなものから得られた“学び”は
実際に行動へと昇華させるのが目的であり、衒学的になることには何の意味もない。
で、あるのならば(行動を主目的に据えるのであれば)、
今、自分がやるべきことは、本当は自分自身既に分かっていたのかもしれない。
ただ、それに目を覆って、新しい何か別の解を探していたのかもしれない。
けれど脳内のシナプスが一気に結合して、「エウレカ!!!」とか叫ぶような大発見はあるわけもなかった。
思えば2ヶ月間、様々なメディアから確かに“小さい衝撃”を受けたことは何度かあった。
だけど、行動を変革するまでには至らなかった。
なぜ?
もっと大本にある、マインドが腐っていたから。
根が腐っていると、どんなにいい蕾を付けたとしても、決して萌芽することはない。
そしてマインドは行動指針であるのだから、頭で理解するだけではダメ。
実際に経験して、体得するという事が必要なのだと思う。
そういう状態なのに、理詰めで、新たな発見をしようとする時期ではなかったのだ。
そうではなくて、帰納法的に具体的行動によって、マインドを変革させるということが必要だった。
僕がやってることはベクトルが逆だったんだよね。
家族の大切さ
そしてひきこもりニートになってみて、改めて気づけてよかったこともある。
書いてしまえば陳腐な表現になってしまうけど、【家族の大切さ】だ。
これを肌身にしみて感じられたのは良かった。当たり前のことって気づきにくいよね。
きっと多くの人は、社会的所属を失ってしまった人に対して冷たいんだと思う。
だけど、僕がそこまで鬱になっていないのは、きっと家族がこんな僕にも愛を持って接してくれているからなんだと思う。
僕の様子を見ていたら、否が応でも引きこもっているのはわかるのに。
その理由は聞かないし、普段通りに何事もなかったように接してくれる。
家族は僕が絶望しているのを事業が失敗したからだと思っていたけれど。
人に優しくすること
で、今の自分を一度客観視してみると
今までの自分だったらおそらく、そういう人に対して、「仕事を選り好みしているだけ」といったと思う。
実際ほんのちょっと前にも、就活で連敗している知人に対してそう言ってしまったし。
だけどいざ自分が当事者になってみてわかったのは、
単に選り好みしているだけなのではなく、
【何か情熱を持って打ち込めるものの不在】っていうのは本当に苦しいんだよってことが分かった。
“何もしない”ということは、人間には辛すぎるのだと思う。
本当に生きている心地がしない。
虚無感。がらんどう。からっぽ。自分がロボットにでもなったのではないかと錯覚に陥ることがある。いや、マジで。
でも、自分がそんな感覚をしたからこそ、これからは誰かに対して
「選り好みしてるだけ」だとか「自己責任」とか、安易に言わないようにしようと心に誓った。
僕はまだそういった人に対しての明確な解決策なんてものは持っていないけど、
少なくとも理解しようと寄り添っていってあげたいし、話を聞いてあげたいと思う。
もう理解しようともせずに、たった一言のワードだけで一蹴するようなことはしない。
知らない存在に対して、理解しようとする姿勢を怠らない
先日、若年層の社会復帰を手助けしているNPO法人「育て上げネット」の代表、
工藤さんの著書「大卒だって無職になる」を読んでみたけど、
働けない若年層の救済を専門に取り組んでいる人(今までに関与した若者は5000人以上らしい)でさえも、
結局のところ、一般的なレールを外れてしまう理由は千差万別で分からないらしい。
まぁ確かに、人間を理解するのなんて無理だよね。決まった1つの解があるわけではないし。
だからこそ人は人を型にはめたがるのかもしれないし、お互いがそうしあった方が思考停止できて楽なのかもしれない。
でもやっぱり、自分(他者)と向き合うってことからは絶対に逃げてはいけないと思う。
僕の場合は【何か情熱を持って打ち込めるものの不在】っていうのが原因だったけど、原因というのは人それぞれ違う。
その原因を追求するために、自分との対話をする。それ自体も行動だし、第一歩だと思う。
やり方なんてなんだっていい。こうやって僕みたいに自分の気持を言語化してみるっていうやり方だってある。
誰か気のおける話し相手がいない人は良いと思う。自分と会話をすることって。
大事なことは、知らない存在に対して、理解しようとする姿勢を怠らないことだと思う。
前述したNPO法人の代表の方でさえ、ひきこもりニートに陥る明確な理由は分からないと言っているのに、
分かろうとしない人が自分の脳内で勝手に結論付けて、
分かったような気になるのが、一番そういった人達を窮屈にしているのだと思う。
これって何もひきこもりニート問題に関することだけではないと思う。
自分の理解の外にあるものに対して、攻撃的になるのは、もはや人間の性みたいなもんなのかもしれないけど
僕は、理解しようと努めること。また、その自分の脳内では測れない何かを、頭ごなしに否定するのではなく
あくまでフラットに受け止められるような、意識を持っていたいと思う。
ニートを卑下する人へ
さっからちょくちょく言ってるけど、社会的所属を失ってしまった人を卑下する人へ。
正直、今の世の中レールを踏み外す人のほうが多いと思う。
ちょっとしたボタンの掛け違いで、自分もそうなり得る状況に陥っても何らおかしくないということ。
そこを改めて認識して欲しい。強い人間なんていないと思う。
そういうレールを外れた人を卑下する人の基になっているアイデンティティって
「自分はまだ、しっかりとレールに乗っているぞ!」っていうちっぽけなプライドとか、
「資本主義社会である以上、ある程度の“こぼれ組”がでるのはしょうがない」なんて言って、
切り捨ててしまう愛の無い人たちなんだと思う。
でも実際プライドなんてすごい脆弱なものなんだけどね。
ホームレスや生活保護を受けている人たちを自分より下に見るのも同じこと。
自分はちゃんと働いているんだぞっていうプライド。
それに何の意味があるのだろうと思う。自分を相対化させて優越感に浸るのって何か、違うよね。
自分の価値観は自分だけのもの。絶対的であった方が良いと思う。
この間、都知事選出馬してた家入一真さんも言っていたけど、
レールを踏み外してしまった人が、自分一人で色々なものに苛まれすぎることも良くない。
そしてそうなってしまう背景にはそういう人間心理を発生させてしまう社会構造や他者の目があるということ。
本当に些細な事で、自分もレールを踏み外したり、こぼれ組になりかねないのに、
今、たまたまボタンの掛け違いをおこしていない人達が、ドロップアウトした人達を圧迫することで、
自分の逃げ場も狭くし、まわり回って自分の首を絞めていることに気づいた方がいい。
まぁきっとこれに関しては、当事者になってみないと実感が沸き起こり得ないのかもしれないけど。
家入さんは、そういったレールを踏み外しちゃった子たちのために、現代の駆け込み寺として、
Liberty(リバ邸)というシェアハウスを運営しているんだってさ。
こういう受け皿が確かに少なすぎると思うし
こういった居場所が増えていったら、少しは自分を肯定できるようになると思うし、
体面だとか、そういった外的要因を気にする人も少なくなっていくのではないかなーと思う。
だから家入さんがやってるビジネスってやっぱり素敵だなと思う。
ビジネスをやるのではなくて、やりたいことが、やる必要が有ることが、ビジネスとして具現化されているだけの話。
これが本当の意味の小さなビジネステロってやつかな。わからんけど。
よくあるのが、儲けたいからビジネスをやるという発想。
確かにきっかけや動機はなんでもいいと思う反面、ずっとそれでやってもいつかは虚無感に襲われると思う。
だって、お金自体には何の価値もないと思うから。
それにそういう不順な動機で始める人がよくやっているのが、押し付けがましい大義名分。社是。
そういうので教育という名のごまかしをしてくるけど、本当に大義名分を背負ってやっているのなら、
もはやそんなの口に出すまでもなく、「やっていることを見て下さい。」この一言で済む。
まぁ一番最悪なのは、こうやって僕みたいに人のやっていることを分析だけしてる批評家なんだろうと思うけど(笑)
今思いついたけど、これって「意識高いけど行動伴っていない系」とでも言おうかな。
略して、「意識だけ高い系」
激しく微妙だ。
そして今、これからのこと
改めて、自分の最低コストを計測してみる
この前自分の1ヶ月の最低コストを計算してみた。
15万円だった。
それにプラスして、理想の生活水準を考えてみたんだけど、、、
何もない。無欲(笑)
別に守りに入る年齢ではないと思うのだけど、今は特別欲がない。
1月15万稼げればいいのかもしれない。
幸せの価値観についても色々と考えてみたり、話を聞いてみたりしたけど、必要十分なくらいが何事もベストなのかなと。
お金を稼いだら選択肢が増えるし、お金を稼ぐことから逃げてるわけじゃないけど、
お金を稼ぐことを目的にしてビジネスはしたくない。こーゆー考えの人って意外と多いと思う。
情熱を傾けられるビジネスがしたい。
点と点が繋がる出来事が起きた
そんな折、この出口の見えない問いに対して、点と点が線になるような示唆を与えてくれる動画に出会った。
仲暁子さんというフェイスブックジャパンのスタートアップに参画して
現在はWANTEDLY株式会社の代表を務める女性の、TED×京都の際の動画。
これに僕は大きな感銘を受けた。
仲さんはこの演説の中で、「自分が情熱を傾けられることを持っている人のほうがマイノリティーであるということ。」
「更にそのマイノリティーの人たちも最初から情熱を傾けられること一辺倒にやってきたわけではなく、
自分の目の前にあることを、ただただしゃにむにやってきた結果、それが見つかったということ。」
だと言っていた。
そしてキーワードは「計画をたてないこと」だと。
長期計画をたてて、そこから逆算していくことによって
今自分がするべきことを明確化させるってよく言うけど、それには問題があると。
確かに自分のキャリアパスのような長期計画を立てることによる弊害は
1.その計画を立てたのは、その当時の自分だということ。
中学生の頃にたてた夢や目標が、多くの場合自分の成長に伴い変わっていくように
その計画をたてることによって、その当時のステージの自分の計画に、逆に縛られることになりかねない。
じゃあ臨機応変に計画を変更していこうって話になるけど、
それだったら長期計画を立てる意味は薄いよねって話。
2.ダメだった時に柔軟な動きができなくなるということ。
ダメだったら次。ダメだったら次。そーゆー風に身軽に行きたい。
でも、計画をたてることによってそれが出来なくなる。損切りっていう概念と似ているかも。
これは実際に今自分が経験中。
ダメだったら次にいけなくなる理由としては様々な要因があるけど
1つはこの長期計画に縛られるということ。
あとはサンクコスト(埋没費用)の問題。人間関係的なしがらみ。
確かに頭では分かっているけど、いざ自分がその当事者になってみると、この切り捨てがなかなかに難しい。
理由はただひとつで、人間心理が働くからに尽きる。
様々な感情の洪水の中に溺れて、身動きがとれなくなってしまう。
そして引きこもりになってしまう、というパターンも有ると思う。ほんと人事じゃなかった。(笑)
まぁ大別すると理由はそんな感じ。
じゃあ、自分に置き換えてみると?
仕事してみて、結果、ダメだった。
ダメだったら次。っていきたいけど、縛られてる。
そして具体的に次に行くって言っても何をしていいのかわからない。
それは売れない芸人やミュージシャンのように、俺にはこれしか出来ないと思い込んでしまうのと似ている。
でもやっぱりまずやるべきことは1つに帰結する。
まず自分に今まで色々なことを教えてもらったメンターのもとにいくのが先決だろう。
この仲さんの演説も、ニートになった直後に聞いたとしてもピンとこなかったのだと思う。
ある程度、自分で熟考した上で、虚無感を感じてどうしようもないという感覚を経験していたからこそ、感銘をうけたのだと思う。
そう考えると意味のないことも、意味がある。
一度かがまないとジャンプできないように、暗い闇の中に潜伏している期間は、
次のステップに飛び出すために、かがみこんでいた必要条件だったと考えることが出来る。
点と点はどこかで線になるけど、自分が点の上に立っているときは分からないとは、こういうことか。
素朴に生きるということ
肩肘張らない生き方が一番楽。”素朴”っていうのが、1つのキーワードな気がする。
自分を着飾ることで何層にもバリアーを張って生きるって、東京人にはありがちだけど、苦しいかもね。
まぁそれをどういう位置づけでやっているかってのが重要だと思う。
自分を着飾ることで、自分を本来よりも大きく見せたいがためにやっているのか、
単純に楽しむことにプライオリティをおいて、自分の無理しない範囲内でやっているのか。
前者は言わずもがな、やってる本人も苦しいし、そんな作られた皮はすぐ剥がれるよね。
自分の身に纏ったもの以上には、人間の本質なんてものは変わらないと思うし。
だから本来は後者であるべきなんだと思う。
けど多くの都会人とかはプライオリティを、楽しむことじゃなくて周りの目とか、
虚栄心とかプライドとか見栄とか、外的要因に置いてるから疲弊しちゃうんだよね、きっと。
そーゆー様々な環境によって凝り固まった自分をさらけ出して
肩肘張らずに、ありのままに、素朴に生きることって、逆にすごく勇気のいることかもしれない。
だけどそーやって生きてると、自然と周りもそーゆー人たちが集まってくると思うんだよね。
それって良い意味の類友じゃないかなー、って思う。
ホストやってた時は、確かに自分を着飾ることが仕事の一部でもあったし、先輩たちもそうだったし、
こんなこと考えないで、単純に稼いだ金で高いものを買うってこと自体に
プライオリティを置いていたから何の疑問も持たなかったけど
今別にホストじゃないし、自分を着飾ることによって得られるメリットもない状況で
今一度立ち止まって再考してみるとそれは逆に自分を苦しめていることに気づく。
インフォビジネス始めた最初の頃とかは、
高級時計や高級車とかで自分をブランディングすることで人を引き寄せることもあるって思ってたけど、
冷静に、そういう媒介物を通して寄ってくる人って、どんな人なのか考えてみて欲しい。
それで寄ってくるような人たちと、今後付き合って行きたいと思うのなら
引き寄せる為に自分を着飾ることもありだと思うけど、
そうじゃないなら肩肘張らずに素朴に生きたほうが楽だし、そういうところに惹かれて引き寄せる仲間もいるかな―と。
まぁ結論としては、自分がどんな仲間と、どうありたいかの理想像を、
自分なりに確立しておくのが大切なんだと思う。
目の前のことに全力で
結局、自分の夢とか目標なんてのは分かんないままだけど、
そんなものあっても、逆に縛られる恐れがあるのなら
それを捨てて、目の前のことに全力で取り組むことに尽きるのだと思う。
まず、自分を大切にし、自分の周りを幸せにしていく。
ビジネスだって、何も壮大なビジョンなんかなくったっていい。
遅くてもいいし、泥臭くてもいいから、踏み出すことが大事なんだと。
最後に、もしここまで読んでくれた方がいるのなら、本当にありがとうございました。
PS:ニートも選択肢の1つにすぎない
と、思います。
というか、そう思えたら、すげー楽だなと。
この記事の中でも書いたけど、何もしないって、それだけですごく辛かったです。
そんな状態になったら、やっぱり何かしら活動がしたい、ビジネスしたい、働きたいって思う人は“自発的に“出てくるだろうし、
もうちょっと怠けていたいっていう人もいるだろうし、もう全然働くとか眼中にないって人もいるだろうし、
いろーーーんな人がいると思うんですよね。
確か京セラの稲盛会長が、著書(生き方)の中で
「仕事によって人間力を磨いている」みたいなニュアンスの事言っていたような気がするけど、
一方で、
「仕事とは人生における手段でしかない。人生があっての仕事であり、仕事のための人生ではない」みたいな考えの人もいると思います。
物事や価値観には、必ず二面性がある。
そういう時に、こっちは社会的に悪だとか、クズだとか、そういうレッテルを貼るんじゃなくて
あくまで選択肢の1つとして受け止められたら最高だなと。
「そーゆー人もいるけど、俺はこっちのほうが楽しいから、働くよ。」
「俺は働き疲れたからしばらく休むよ。休むのに飽きたら復帰するよ。」
多様性を認め合え、あくまで選択肢の1つとしてフラットに受け入れる。そんくらいのゆる~い感じが生きやすい。
理想論なのかな?