【死ぬまでに観ときたい映画】シンドラーのリスト

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この世には義務として視聴しなければならない映画というものが存在する。

シンドラーのリストもそんな作品の1つだと思う。

有名すぎる作品は、わざわざここで紹介せずともな感があったので躊躇ったが、やはり、紹介せずにはいられない。

ホロコーストを題材に扱った作品は数多くあるが、

本作はその中でも頭ひとつ抜けた知名度と完成度の高さを誇っていると思う。

内容に関しては言わずもがな。もし見ていないのであれば、義務として見なければいけない作品だと思う。

今現在“シンドラーのユダヤ人”の子孫は6000人を超えるという。

ジェラール・シャンデリという人の言葉で、

「人が死んだあとに残るものは、集めたものでなく、与えたものである。」というものがある。

本作のラスト、シンドラー氏の墓碑に石を添える為に参列する人達の姿を見れば、その言葉の意味が一目瞭然である。

彼のヒューマニズムは後世に至るまで様々な形を変えて生き続けるのだろう。

いや、ヒューマニズムという言葉には語弊があるかもしれない。

確かにシンドラー氏は闇取引も盛んに行っていたようだし、

現にシンドラー氏の奥さんは、彼を聖人として扱うことに対して懐疑的な立場を取っているらしい。

僕個人としては、結果を得るために何をしてもいいのだとは思わない。

プロセスと結果、どちらも大事なのだとは思う。

だがしかしだ。ホロコーストという状況下において、つまりが常識が通用しない環境において、

誰が正当なプロセスを経れるというのだ。

杓子定規に詭弁を垂れたとしても、何も救うことは出来ないのだ。

前提としての論理が破綻している状況においては、論理的に考えること自体が無意味なのだ。

そして、レイフ・ファインズ演じるナチ将校を見ていて思ったのは、

自身もナチに逮捕された経験を持つ哲学者、ハンナ・アーレントが述べていた「悪の凡庸さ」である。

考えることを放棄し、ただ命令に従うだけの機械になり下がったが故に起こる「悪の凡庸さ」

この性質は、人間誰しも持っているのだから恐い、と。

ゲート将校の場合、シンドラー氏に「許す事こそが力」と教えられてから

早速その教えを実行してみたり、でもやっぱりそれっておかしくね?やっぱゆるせねーよーって殺してみたり

軸がブレブレなのである。

また、メイドとして雇っているユダヤ人女性に対して本能的に恋をしているのは傍目にも明らかなのに

ユダヤ人は人間以下という当時の偏った理性に縛られ、愛憎入り交じる感情の様子も窺える。

これらのことからも分かる通り、ゲート自身、ごくごく一般的な人間としての葛藤も持ちあわせており

故に軸がブレブレであり、“本質的な悪の素養”というものは低いのだ。稀代の悪人とは到底言い難い。

確かに、ベランダから靴紐を結んでいるユダヤ人女性を見つけるやいなや、

まるでアリを殺すかのごとくライフルをぶっ放す。

しかし、それだけでは本質的な悪の素養が高いとはいえない。

なぜなら本人はその行為が悪いことだとは思っておらず、

むしろユダヤ人を排除したという賞賛されるべき行為だと思っているのだ。

これらは全て、思考停止や盲信からもたらされる、悪の凡庸さである。

ホロコーストに関する古典的名著「夜と霧」を書いたヴィクトール・フランクルは

著書の中でこう述べている箇所がある。

収容所の監視者の多くが、収容所内で繰り広げられるありとあらゆる嗜虐行為を長年、

みなれてしまったために、薬の服用量がだんだんと多くなるのに似て、すっかり鈍感になっていた、ということだ。

この鈍感になり、心が干乾びてしまった人びとの多くは、すくなくとも進んでサディズムに荷担はしなかった。

しかし、それがすべてだ。彼らはほかの連中のサディズムになんら口をはさまなかった。

人間には環境適応能力というものがある。

この能力は恐ろしくて、どんな非人道的な行為でも、日常的に行われれば、感覚をマヒさせてしまうのだ。

そしてこの環境適応能力というものも、思考停止や盲信がもたらすものといっていいのではないか。

また、本作では、「戦争というものは人間の暗部を浮かび上がらせる」と述べられている。

しかし個人的には、戦争という凄まじく影響力の強い外的要因は、必ずしも人間の暗部ではなく、

その人自身が生来持っている本性を浮かび上がらせるだけなのではないかと思う。

つまり、誠実な人は戦時中か否かを問わず誠実であるし、

不誠実な人は戦時中か否かを問わず不誠実なのである。

戦争という1つの外的要因は、それぞれの性(さが)に拍車をかけるだけなのでは、と思う。

そうなった時に、誰が、自分は決してゲートのようなナチ将校やSSのようなことは絶対にしないであろうと言い切れるのか。

戦時中という極度に抑圧された環境下において、上からの命令にただ単純に思考停止して従うのは、

他者に責任転嫁することもできて、楽なのである。

そして皮肉なことに、人間は楽な方へと流れる生き物なのだ。

ドキュメンタリー映画「アクトオブキリング」でも、凄惨な拷問と処刑を繰り返した当事者たちは、

何も悪びれることもなく、むしろ誇らしい顔をして自らが手を下した処刑の武勇伝をフィルムに向かって語っていた。

なぜ、殺戮の一部始終を誇らしくカメラに向かって話せるのか。

言うまでもない。

自分たちの中では、それが善い行いであると盲信していたからである。

平時においては、「人を殺してはいけない」なんてことは誰もが知っていることであり、自明の理である。

しかし特別な環境下において、人間は、ただ“役割”をこなすことに徹するという性質も持っているのだ。

ではどうすればよかったのか。はたまたこれからそのような状況下に陥った場合は、どうすればいいのか。

自分の頭で考えることを辞めないことであると思う。

歴史を紐解いても、普遍的真理は変わらない。

人を差別してはいけない。

人を偏見の目を持って接してはいけない。

そして、人を殺してはいけないのである。

なぜなら、人は、それぞれ感情を持って生きているから。

他者がそれを奪う権利はどうしたってないのだ。

しかしその真理を捻じ曲げるような法律だったり、政策を人間は作ることもある。

そうなった時に、思考停止状態のままだと、いとも簡単にその波に飲み込まれることになる。

確かに、波に逆らうことは大変かもしれない。危険を伴うこともあるかも知れない。

故に先にも述べたが、必ずしも杓子定規になる必要はない。

どんな手段を使ってでも、普遍的真理に則ったことをしさえすればいいのだ。

一方、凄惨な仕打ちを受けた側は、それは筆舌に尽くしがたいほどの憎しみを持っているのだろうとは思うけれど、

憎悪を憎悪で返してはいけないのだと思う。憎しみからは何も生まれない。

そればかりか、憎しみは、国のマターと個人のマターを交錯させてしまう。

国のマターと、個人のマターは違う。

ナチスが極悪非道なことをしたといって、ドイツ人全てが悪人だとは限らない。

ドイツ人の中にも思考停止していない、善良な人はいたであろう。

国のマターと、その国に属する個人のマターは

同列には語れないし、ごちゃまぜにしてはいけないと思う。

そこから類推すると、先日自称イスラム国に処刑されてしまった2名の日本人の報復として、

彼らテロ集団に憎しみで持って報復してはいけないのだと思う。

後藤さんの意思を汲むのであれば、憎しみで持って報復するのではなく、

愛と平和を基に行動しなければいけないのだと思う。

ビンラディンの自称後継者としてバグダディが台頭してきたように、

単純に自称イスラム国を滅ぼすだけでは根本的解決には至らず、

その大本である原因をじっくりと紐解かない限り、

その思想やテロ集団は雨後の筍のように湧いて出てくるのではないかと思う。

シンドラーのリストはホロコーストを題材にした、事実に基づく物語だ。

しかし、本作の本質はホロコーストの凄惨さを伝えることだけにとどまらず、

人間というものの闇を、ケレン味なしに描き出している。

本作を見て、ここまで書いて、思うことは2つだ。

考えることをやめてはならない。

油断してはいけないのだ。

最後に、本作の予告編の代わりに、

チャップリンの傑作「独裁者」からのスピーチで締めたいと思う。

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