【四国遍路】人生観とはなにか【34日目】

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毛虫に注意してねー!と言われていたが幸い毛虫には遭遇しなかった。この旅ではまだ毛虫もムカデも見ていない。この日は朝からシトシト雨が降っていた。テントを張った四阿は壁もなく、天井が植物のツルだったので心配したが、結露などは特にしていなかった。

一応地元の方達が散歩で使いそうな公園であったのでテントだけさっさと片し、7時頃には出発する。坂を下ればすぐに59番の国分寺にたどり着いた。

このお寺で、この先ありえないほどお世話になる香川出身の久保さんという歩き遍路さんと、12番焼山寺辺りからずっと同じルートで廻っているニューカレドニアの女性2人とも再会した。

久保さんは車中泊で四国遍路をしていて、いつも車を近くに停めて歩き始め、その日の終わりに電車で車を取りに戻っているらしい。そんな話をしながら、参拝をすませる。

本来なら次は60番の横峰寺という山の上のお寺になるのだが、以前宿をお接待頂いた先達さんに、先に61〜3を打ってから60番を打った方が効率が良いし歩き易いという情報をもらっていたので、そのルートで行こうと思う。

61番の香園寺に向かう途中の道の駅今治湯ノ浦温泉で久保さんに、ニューカレドニアのお2人とともにモーニングをお接待して頂く。

その後、61.2.3のお寺は密接しているので、ポンポンとすぐにたどり着く。

やたらデカイ61番。この日は法会が行われていて二階には上がれなかった。ここでじんべい広場で会ったj-walk-naviのお2人と再会する。

まるで公園みたいな62番。

住みたい街ランキングNo. 1「吉祥寺」
この日はここで打ち止めをし、近くのスーパーに隣接されていたコインランドリーで洗濯をしつつ、これまた併設されていたうどん屋で飯を食う。3玉でかけうどん410円、天かすやら何やらかけ放題でこの値段は激安である。

この日は吉祥寺の納経所の方に聞き、椿温泉という所でお風呂に入り、近くの小松オアシスという道の駅でテントを張ることにした。道の駅から一度国道に降りなくても、明日、横峰寺へと繋がる山道があるらしい。

道の駅は少し登った場所にある。霧雨が降る、霞がかった山へと歩を進める。

この道中、昨日Rock’inグランパに問われた、人生観について考えていた。

人生感とは何か。それは一言で言い表すことができないものだけれど、今思う事は、自分は自分の力で生きているのではなく、生かされているということ。そして当たり前だと思っているものは、本当は当たり前ではなく、有り難いものだという気持ちを恒常的に保持し続けること。それが人生観と言うものかどうかは分からないが、一生かけて守るべき、大切なことなんじゃないかと思う。

人間死期を悟ると、あの世に何かを求めたり、自分の魂はどこへ行くのかということに対して興味がそそがれるものなのかもしれないが、ブッダが言うように現世もあの世も本当はどうだっていいこと、瑣末なことなのかもしれない。今が全てなのだ。それは感情論で述べられるような「今を生きろ!」というような意味合いとは少し違い、1度悟ってしまえば、常に最強な自分の状態が断続的に続くということなのだと思う。

他者に何かを期待することの無意味さとも繋がるかもしれないが、あの世とか、自分以外のものに何かを求めてもしょうがない。そこに希望を求めているうちは、まだまだ雑念の塊に囚われているのだと思う。だからこそ悟りを求めて仏門に入る人もたくさんいるが、今は、それも何か違うような気がしている。

悟りとは、それを求めたり、すがったりするようなものではないと思うのだ。雑念を振り払うという事は何かにすがるということではなく、まさに職人のように、今、目の前のことに対して熱中すること、全力で情熱を注ぎこむことなのかもしれない。今が最高であれば、あの世もこの世も関係ない。そこに境界線はなく、ただ天上天下唯我独尊であるということを自分だけが知っている、最強な自分が、厳としているだけなのではないだろうか。


椿温泉に向かっている最中に今朝道の駅で連絡先を交換した久保さんから電話がかかってきた。久保さんも僕と同じルートで、今日は椿温泉に入り、ここの道の駅で車中泊をするようだ。

結局風呂の中で再会し、閉店後の道の駅にマットを広げ、ワンカップ大関でプチ宴をした。

僕の話も軽くしたがそれよりも人生の先輩である久保さんの人生の話をたくさん聞けた。若く、陽気なおっちゃんである。

夜も雨は降り続いていたが、道の駅の長い屋根と、ワンカップ大関の心地よいアルコールが睡眠導入剤の役割を果たし、ぐっすり眠ることができた。

【支出】飲食費90円、410円、洗濯&乾燥700円、入浴料400円

【歩行距離】32キロ

【参拝霊場】59.61.62.63