これからの「ウォッチメン」の話をしよう

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ウォッチメンというアラン・ムーア原作のアメコミ映画を2回観た。

本作はお腹のたれたリアリズム溢れる中年ヒーローが出てきたり、アラン・ムーアのファシズムへの皮肉や政治的描写が色濃く反映されたとても政治的・哲学的な作品だった。

色々と書きたいポイントはあるが、この記事では本作の哲学的な部分にしぼって、最近夢中になって呼んだマイケル・サンデル著「これからの「正義」の話しをしよう」に絡めて書いていきたい。

あ、思いっきりネタバレ有りなので、未視聴の方はご注意を。

功利主義的世界の実現

本作のラストでは典型的な功利主義に基づいた決定が下される。

最大多数の最大幸福の名のもとに主要都市に住む数百万の人間の人権は無視され、オズマンディアスという一人の傲慢な自称「王」によって、冷戦を避けるためという大義のもと、犠牲として殺されてしまうのだ。

更にそれを行ったのは歩く核抑止力とも呼ばれていたDr.マンハッタンだと誤解を招かせ、米ソ共通の敵を作り出すことに成功する。

この結論に関して大多数の人は違和感を覚えると思う。

しかし、人類の敵として位置づけられることになった当のDr.マンハッタンはこう言う。

「許しはしないが、非難もしない。だが理解する。」

一人の人間が他人の人間の生命に関して権利を保有するというオズマンディアスの傲慢さを認めつつも、結果論的ではあるが冷戦は回避されたことも事実であるので、今更世界を再びカオスの中に埋没させるよりは、このまま結果論としての世界平和を享受するほうが人類全体としては良いと判断したのだ。

そして自分は人類のために、社会的に抹殺されることによって人類を救うという、まるでキリストのような姿が同時に描かれている。

ここで似たようなラストを迎えた映画の1つとして有名な作品に、クリストファー・ノーラン版バットマンシリーズの第二作目「ダークナイト」がある。

バットマンは敵のジョーカーにより悪の側に落とされてツーフェイスになってしまったハービー・デントを世間に公表することは、功利主義的に考えても最大多数の最大幸福が実現するとは言いがたく、更にそれは善良な人間も容易に悪に堕落するという意味において、ジョーカーに対しての敗北を意味することになる。だからこそ自分が犠牲になり、ダークナイトとして全ての罪を背負うことで、ゴッサムの善の象徴・記号となるハービー・デントを守るのだ。

ダークナイトとウォッチメンのラストは似通っていると一見思う。しかし、この二作のラストシーンにおいて大きく異なっている点は、自己犠牲の精神が、自分で決定したものであるかどうかという点だ。

ダークナイトの場合はバットマンは自分で社会の生贄になることを選択している反面、ウォッチメンでDr.マンハッタンを生贄にすることを決めたのはDr.マンハッタンではなくオズマンディアスという他者なのだ。この点が本作をより後味の悪いものにさせているのだと思う。

人間は基本的に自分の命は自分のものであるという認識のもとに生きている。だからこそ他人の命の権利を奪う行為である殺人は許されないし、それに対して道徳的にも強い嫌悪感を覚える。

ダークナイトにおいてバットマンが社会的に自分を殺したことは悲しい事実ではあるが、究極的にはそれは本人の意志であり、他者がどうこう言うことではないという結論に達する。しかし、ウォッチメンのDr.マンハッタンは、その社会的生命を自分ではなく他者によって許諾なく抹殺されるのだ。それはひいては殺人と同義である。

しかしDr.マンハッタン1人の社会的な死によって(厳密にはそれプラス数百万人の死だが、ここでは分かりやすくするために省略する)、数十億人の人間が救われるとしたらどうだろう。その殺人は正当化されるのだろうか。ここで正当化されると思うのであれば、アナタは功利主義者だ。厳格に最大多数の最大幸福の原則に則っているといえる。

だが、多くの人は違和感を覚えるのではないだろうか。僕もそうだ。たとえどれだけ多くの人間が救われようとも、そのために1人の人間の個別具体的な状況を無視するべきではない。

では、Dr.マンハッタンが自分の意志で社会的生命を終わらせることを選択したのならばどうだろう。これはダークナイトと同じだ。自分の命は自分のものであるという原則に則れば、それに対して他者が干渉することは出来ない。

以上のことから考えると、重要なのは意思決定の所在であることが分かる。Dr.マンハッタンの社会的生命を終わらせる判断は本人の意志によるものなのか、他者によるものなのか。他者によるものの場合は、本人に対して許諾を取ったのか否か、ということが重要になってくるのだと思う。

まぁオズマンディアスが傲慢なのは、人類の共通の敵としてDr.マンハッタンではなく自分に目を向けさせるように、世界一賢い頭脳持ってるんならいくらでも考えられたであろうにも関わらず、自分は安息地にいながら世界の救世主をきどってヒロイズムに酔っているところにある。こういうインテリが幅を利かせている世界が一番怖い(笑)

これは僕の妄想だけれど、オズマンディアスのようなインテリが作り上げた仮のユートピアは、功利主義の構造的な欠陥である少数派を無視した世界になっていることであろう。そうなるとマジョリティにとってはユートピアでもマイノリティにとって非常に生きづらいディストピアであるという、多数決方式が至るところで採用されている現代に通じる部分があるような気がする。

ラスト、その歪んだ世界を創りだしたオズマンディアスの会社ヴォイドカンパニーは益々発展し、功利主義的世界を認めようとせず、真実を世界に公表しようとしたロールシャッハの日記が報道機関の読者ハガキのようなところに届く。

その日記によって表層的なユートピアが崩壊してディストピアが姿を表すのか、はたまたワイドショーの一コマとして有識者の取り留めのないコメントと共に無為に消費されて終わるのかは、視聴者に委ねられたラストとなっている。

PS

余談だけれど、原作者のアラン・ムーアは本作でスーパーヒーローもののお約束である、「人外の敵」を描いていない。むしろ本作でヒーロー達が戦っている相手は、敵国の人間たちである。

映画評論家の町山智浩さんによると、本来人類の安寧のために闘うべきはずが自国のためにのみしか戦わない右翼のようなものになっているのは、仮に人類のために強大な力を持ったものが戦い、勝利した場合、それはファシズムへと繋がるというアラン・ムーアの考えがあると町山さんは述べていた。

ウォッチメンはそのどちらを選びますか?という問いであり、アラン・ムーアの他の著作である「Vフォー・ヴェンデッタ」は彼自身の思想であるアナーキズムを掲げてガイ・フォークスの仮面を被った主人公が政府に革命を仕掛ける様を描いている。

こういう背景知識を持ちながら映画を見ると、また違った映画の魅力を垣間見れて楽しい。