アンヴィル&ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライトから学ぶ、価値重視の考え方

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先日、「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」という

ドキュメンタリー映画チックなライブDVDを見たのですが、それを見ていて感じたことを、

「アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち」という大好きすぎる映画とも絡めて書き連ねようと思います。

<ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト予告編>

まず、彼らがすごいのは、還暦を迎えたあとも、いまだにプレイヤーとして最前線に立ち続け、

且つ観客を熱狂の渦に巻き込み続けていることにある。

一般的にはある年齢を超えたら裏方に回るという固定観念があるのかもしれないが、彼らにとってはそんなことは関係ないんですよね。

好きなら一生やり続ければいい。そんな言葉にすると簡単でも、体現することは難しいことを

地で行っているところに彼らの凄さがあり、多くの人を胸を打つのだと思う。

だが、脚光を浴び続けているローリング・ストーンズとは一転して、

アンヴィルっていうバンドはその陰の存在とも言っていいほどに、ぜーんぜん人気がないんですよね。

どちらのバンドメンバーも、その人生をバンドに捧げているのには大差ないが、結果は大きく異なっているんです。

その辺りに関しては本記事では触れないとして、僕が感銘を受けた点は

両バンドとも、自分の情熱を傾けられることに、真摯に、愚直に、

一直線に取り組んでいて、そのプロセスが素晴らしいと思ったんです。

余談ですが、よく取り沙汰される議論として

プロセスと結果どちらが重要なのか、というものありますよね。

あれってマジで無意味だと思っていて、個人的にはどちらも重要であり、表裏一体だと思っています。

努力をすれば必ずしも結果がついてくるわけではないけれど

プロセスなき結果はありえないし、だからといってプロセスだけを求めていて

結局結果が何も付いてこなかったら、それはビジネスにおいても嘘になる。

逆に結果が出れば不正行為など、どんな悪辣な形のプロセスを経てもいいとは限りません。

それって短期的にはいいかもしれませんが、長期的にはいつかしっぺ返しくらうだろうし、

それだと誰も付いてこないよなーと。

以前、女子フィギュアの浅田真央選手が、オリンピックでメダルが取れなかった時に

「プロセスよりも結果が全てだよ」って言っている人がいました。

真央ちゃんのプロセス自体は、日本人の周知の事実で、たくさん辛いことを乗り越えて努力してきたのは知ってますよね。

しかし結果としてはオリンピックではメダルは取れなかった。

その反面、彼女の最後の舞台は結果どうこうよりも、自己ベストをたたき出し、日本人に多くの感動を与えましたよね。

その上で、その結果に対して彼女がどんな決断・判断を下すかは彼女次第だということ。

傍観者として色々と口を挟むべきではないし、様々なプレッシャーや困難を

ひとえにその身に受け止めてきた彼女に対して、口を挟める立場でもないだろう、と当時思ってました。

横から色々と意見を言うだけなら簡単な事だが、

評論家や批評家っていうものは、表現者自身である選手(浅田真央)には、いかにしても及ばない。

そうである以上、彼女には最低限の敬意を示すべきであると思う。

単に悪口書くだけなら誰でも出来るし、頼むから公衆便所にでも書いておいてくれと思うんだけれど……

批評家(評論家)というのは伝達者の側面も保持していることを、肝に銘じておくべきだと思う。

だから批評は建設的でなくてはならないし、望むべくは、その批評それ自体を、1つのコンテンツ化するべきだと思う。

その人の批評(伝達)によって、新しい才能に出会えることは、素晴らしいことであり

そうなればこそ、表現者・批評家・情報享受者、三方良しの関係が築けるんじゃないかな。

やばい。話がそれすぎた。焦る。はなし、戻します。

現代人の多くが知的な生き物なのに反して、両バンドのメンバーは感情的な生き物だ。

損切りとか、成功の秘訣とか、リスクヘッジとか、ネガティブシミュレーションとかキャリアパスの構築とか

そんなのあんま考えてないのだろうと思う。

好きだからやる、マーケティングとかPRとか分からん。

そんなん考えてる暇があるならライブやろーぜ―!!ひゃっほー!!!って感じだ。

確かに、いかにして自分たちを売り込むかっていう要素は大事なのは間違いない。

どんなに丹精込めて、自分の想いを綴った曲だとしても、それが届かなければ存在していないことと同義だ。

しかし僕が危惧するのは、多くの人がいかにして売り込むか一辺倒になっているのではないかということだ。

大事なのはそのバランスだ。

いかにして売り込むかよりも、自分たち、又は自分が提供してる

モノやサービスに関しての価値を高めることの方が重要だと思う。

マーケティングを駆使して売れるものを売れるようすることはできるが、売れないものは売れない。

そんな当たり前のことを見落としがちになっている人が多いように思う。

また、売れないものを誇大表現などをすることにより、本来の価値よりも何倍も大きくみせることは

マーケティングでもなんでもなく、ただの詐欺だ。

ここは一旦立ち止まって、両バンドを私淑し、

自分が提供しているプロダクトの価値を高めることに対して、再考してみる必要がある。

マーケティングを考えるのはそれからでも遅くはない。

勿論、売り方に関して何も工夫をしないのはよろしくない。

ミック・ジャガーのように「とりあえずライブやろーぜー!」的なノリで

「とりあえずいい商品・サービス作ろ―ぜ―!!」ってやってるだけでは、

本当に才能や、イノベーション、希少性がない限り、成功するのは難しいと思う。

陰の存在としてアンヴィルを見ると、その現実が否応無く突きつけられる。

まぁ本来はミック・ジャガーのような考え方が健全なんだろうけど。

だからこそ、先述したようにバランスが大事なのだと思う。

2つのバランスの比率は各々異なるであろうが、

価値を高めることに比重を置くほうがいいのだと思った。

「自分も面白いと思わない限り、ターゲットが誰であれ、面白いものにはならない。

コンテンツが当たる時はドミノ倒しのように広まる。まず自分が倒れないと他には誰も倒れない。

自分も倒れるくらい面白くなければだめ。周りを見ながら作るのではなく、自分が良いと思うものを作る。

つまり、自分も大衆の1人だということを忘れないことが重要。」 ~秋元康~

この秋元康氏の発言から窺えるのは、

本当に価値あるプロダクトは、マーケティング用語でいうところのマーケットイン型(顧客ありき)ではなく、

プロダクトアウト型(商品・サービスありき)からでしか創発されない、ということだろうか。

価値から考えるか、売り方から考えるか

長期スパンで考えれば、前者でいくべきであるし、

価値ありきのマーケティングであるということを肝に銘じようと思った。

それでは!

PS

「アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち」は、こっそり、死ぬまでに観たいシリーズに追加しておきました。

この映画に関して書こうとすると、新しく1つ記事が書けると思ったので、またいつか書きまーす。