ゲーム廃人(中毒)は悪か、制作会社は諸悪の根源か

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最近ではパズドラやモンストなどのソシャゲ、古くはウルティマオンラインやFFなど様々なネトゲが数多のネトゲ廃人を生み出してきた。そして一般的にはネトゲ廃人は人生の敗北者として嘲笑されるが、ゲーム制作会社はそのゲームの生みの親なのにもかかわらず悪として糾弾されることは少ない。そこで今回は以下の2テーマに関して考察してみたい。予め断っておくが、かくいう僕もネトゲ廃人だ。

1.そもそもゲーム中毒というのは一概に悪いことだと決定づけられるのか。

2.ゲーム制作会社はゲーム中毒者を生み出していることに関して悪なのか。

早速始めていこう。

まずはゲーム中毒にかぎらず、ユーザーを中毒にすることそれ自体が悪影響をもたらしているかどうかを考察する必要がある。もし中毒状態が必ずしも悪影響をもたらしていない、もしくは良い影響をもたらしているのならば、ゲーム制作会社は諸悪の根源などではなくむしろ社会を活性化させる媒介者として非常に良い働きをしていることになる。これは前提条件として重要な問いだ。

では、ユーザーを中毒にするビジネスモデルとは何が挙げられるだろうか?

今思いついたもので言うと、ソシャゲ、ラーメン、整形などたくさんある。こう考えると中毒にするビジネスモデルというのは何もゲームだけではない。背脂こってり系のラーメンだって食後は「もう絶対食いたくねぇ」と思うんだけど、なんだか分からないが翌朝にはもう体が欲しているし、一箇所直したら他が気になって、そこを直したらまた気になる所が出てくるという整形中毒の人も多くいる。

つまり、ビジネスというものはどんなジャンルでも、突き詰めれば顧客を中毒にしてしまうものなのかもしれない。

ここで先ほどの問いに戻って中毒状態が悪影響をもたらしているかどうかを考えると、必ずしも悪影響はもたらしていないといえる。別にこってり系のラーメン中毒の人が朝昼晩ラーメン食べまくっても、ゲーム中毒者が寝食を忘れてゲームばっかしても、整形中毒者が顔いじりまくっても、それは個人の自由であり、それを理由として他者に何らかの迷惑をかけていない限り、とやかく言われる筋合いはないとリバタリアンなら言うであろう。確かにその通りだ。本当に誰にも迷惑をかけない中毒者なら何の問題もないであろう。その人の好きにして良いと思う。

しかし、多く中毒状態が問題になっているのは、日常生活に何らかの支障をきたしている場合が多い。例えば働かないでゲーム三昧とか、血糖値が上がっているのにラーメン三昧をして家族や親類に迷惑がかかるだとか、お金がないのに整形やホストにハマるだとかである。社会的に中毒性が問題視されるゆえんはここにある。何かに中毒になってしまうと、他のすべてを顧みなくなってしまうのだ。

ここから導き出されるのは、「他者に迷惑がかかるような中毒性に限り悪だといえる」ということだと思う。勿論例外はある。例えば仕事中毒という言葉があるように、寝食を忘れて多少周りに迷惑をかけてでも、自分のミッションに向かってしゃにむに仕事中毒にならなければいけない期間があることは起業家ならば周知のはずだ。

仕事中毒が一般的にゲーム中毒などよりも社会的に許容されやすい理由は、それが生産的な活動だからであると思う。仕事とは社会に対して何らかの貢献をすることであるが、ゲームは何の貢献もしない非生産的な活動だと思われている。しかし、本当にそうだろうか。これに関しては後述することにする。

それでは続いて、ゲーム制作会社は諸悪の根源なのかについて考察したい。

先ほどの考察で、「中毒性が悪と規定されるのは、他者に迷惑がかかる場合に限る」と結論づけた。この結論に即して考えると、制作会社は悪だといえるだろうか。一般的な意見として多いのは、ゲームを続けるのか辞めるのかの判断はユーザー自身で決めることであり、制作会社はあくまでコンテンツを提供しているに過ぎない。よって、制作会社に非はないという論理だ。この論理は先程のラーメン屋や美容整形外科にも当てはまるであろう。

予め言っておくと、この問いはまぎれもなく正義の問題になっている。提供する側は悪影響をもたらす中毒者を出している状況を知りながら、「あくまでも当社はユーザー様に喜んでもらえるようなものを作っているだけです」という杓子定規なスタンスを貫くのか否かという、倫理的な問題である。

大前提としてこれだけ製品・サービスが溢れている状況の中で、中毒になる人を出すほどのプロダクトを作れることだけでも稀である。(多くのプロダクトは鳴かず飛ばずである。)その点に関しては敬意を払いつつも、個人的には制作側が悪かどうか規定されうるのは、制作側のスタンス次第ではないだろうかと思う。つまり、顧客から“奪う“ために中毒にさせるのか、顧客に“与える”ために提供した結果として中毒になるものが現れるかの違いである。前者は顧客から搾取する構図であり、後者は顧客に貢献するというスタンスである。

水野敬也さんの「夢をかなえるゾウ3」という本の中に出てくるガネーシャという神様は、「本当にお客さんことを思っているのであれば、中毒にならないように与える量を制限させる」そしてその指針となるのが「そのサービスを自分の子供に買って欲しいかどうか」という問いであるという。自分の子供に甘いものを与え過ぎはしないであろう、なぜなら親が肥満にならないようにコントロールするからである。それはお客さんに対しても同じだ、という論旨である。このスタンスは先程の与えるために提供している制作側のものであるといえる。

しかし、こうは書いたものの現実には単なる言葉遊びになりやすい。ドワンゴの川上量生さんが「経営者になると性格が悪くなる」と言っていたことがある。これはつまり経営者になると多くの金銭的・人材的リソース配分を一度の決定で決めなければならないことも多く、その大きい数字の裏にある個々人のバックボーンにまで配慮できなくなるということである。

故に制作側としては「あくまでも当社はユーザー様に喜んでもらえるようなものを作っているだけです」という、コメントに尽きるのだと思う。本当に。そもそも大きい会社になればなるほど、ユーザー個々人のバックボーンへの配慮など無理な話なのだ。そこにまでまわすリソースはないのだと思う。このような大きい会社が動くのは「ガチャ規制」のように政府などから直接圧力がかかった場合のみである。この点を踏まえて制作側が中毒者を生み出しているのが悪かどうかの問いに立ち戻ってみると、ますます複雑になってくる。

制作側はあくまでビジネスとしてプロダクトを作っている。となれば利益を出さなければ今度は社員を路頭に迷わせてしまうばかりか、IPOしている会社の場合、株主にも迷惑がかかることになる。ユーザーのためを思って与える量を規制し、それが売上低下に繋がるとなると、今度は内部から悪だと糾弾される恐れがある。そのような事情が今のソシャゲの実情であり、マーケティングに正義の概念を持ち込んではならないと言われるゆえんもここにある。

しかし逆に考えれば、ここに未来のビジネスモデルがあるといえる。上記の論旨においては他者に迷惑がかかる悪性の中毒を根底において述べてきた。だが一つ目の考察の最後に少しだけ触れたように、仕事中毒という生産的な中毒性に限ってはその限りではないのだ。

つまり中毒を逆手に取ってそれを社会に対しての貢献へと変え、生産的なものにしてしまえば、それはむしろ社会を活性化させるものになる。活動家の家入一真さんがTwitterで「学習は興味を才能に変え、仕事は才能を貢献に変える」とつぶやいていたが、「学習」の部分はそっくりそのまま「中毒」へと置き換えられる。

ゲーム中毒の人はその特技をどんな形で貢献できるか考える。例えばゲーム実況動画は今日本では一番人気のあるジャンルだし、それをマネタイズ化する仕組みやインフラはネットの発達によって整っている。もっと本気を出してプロゲーマーという職も、梅原大吾さんを筆頭に市民権を得始めている。プロゲーマー養成学校なるものも最近設立されたほどである。ラーメン中毒の人だってラーメン王子だとかラーメン博士だとか、ネットでラーメン日記つけてただけで人気に火がついてプロラーメン評論家になった人もいるし、整形中毒者にも同じことが言える。

つまり、自分以外にも同じジャンルの趣味を持った人は中毒まではいかないにしろ、たーーくさんいるということなのだ。そこで趣味程度の人に中毒者である自分が持っている知識やスキル広めれば、それは一般の人からすれば価値のあるモノになるのだと思う。そもそも中毒になれるものをもっているだけで素晴らしいんじゃないだろうか。そこまで熱狂できる何かを持っていない人のほうが多い。結局それを生産的にするのか非生産的にするのかは自分の選択次第であり、どうにでもなる。だからこそより重要なのは、どこまで本気で中毒者になれるかではないだろうか。

ここまで考えた段階で2つ目の問いである「ゲーム制作会社はゲーム中毒者を生み出していることに関して悪なのか」に対しての個人的な答えは「絶対的な悪ではないが、ノブレス・オブリージュ(持てるものの義務)がある」となる。

ここでいうノブレス・オブリージュとは単に与える量を規制して中毒性を緩和させようとするのではなく、先程述べたようにユーザーの中毒性を貢献へと変えてあげられるような施策を、積極的に制作側が打ち出していかなければならないということである。

最近では任天堂がゲーム実況配信者に対して広告収入の分配を行う施策を発表して話題になった。身軽な大企業は動いている。このような、中毒性を貢献へと変える施策はユーザー自身のためになるだけではなく、その中毒ユーザーを自社プロダクトのプロモーターとして使うこともでき、更にそれを視聴するライトユーザーのためにもなり、いわゆる三方良しの関係性が築けるのではないだろうか。

以上長文になってしまったが、ネトゲ廃人なりに中毒者全般のあり方や制作サイドのスタンスに関する選択肢を提示してみた。自分で書いていて思ったが、構造的な問題を抱えている部分は、逆に考えれば止揚できる可能性があるということでもある。任天堂は大企業でも特殊な例でいち早く次世代型のビジネスモデルへとシフトしていっているが、今回のようなやり方に一番スムーズに移行できるのは中小零細企業こそだと思う。課金重視のモデルよりもコミュニティ重視モデルへの移行を、一ゲーム中毒者として望んでいる。