最近ドキュメンタリーなどの、一個人の人生の一部を垣間見ていて痛感するのが、
どんな人の人生であれ、突き詰めれば、つまらないものなどないということだ。
決して特異な人生を歩んでいる人のみが、面白い人生なのではない。
普通の人の人生にだって、毎日、紆余曲折はあるのだ。
そんないわゆる「普通の人」にフォーカスしたのが、昨日読んだこの書籍。
タイトルに石川啄木の言葉を冠しているこの書籍でクローズアップする人間は、
巷にあふれる、いわゆる「普通の人」だ。
でも考えてみると、“普通”とはなんだろう。
インターネットの登場で、こんなにも生き方が多様化している現代においては、
普通という言葉自体が、定義が曖昧なもので、死語になっていくのかもしれない。
けれどもここでは普通という言葉の定義を考えることはひとまず置いておいて
この文章中では、とりあえず「巷にあふれる多くの人」くらいのニュアンスで使っていこうと思う。
この書籍の中で登場する普通の人の一部を紹介すると
・酒によってアパートの5階から墜落し、両目を失明した市役所職員
・46年間一人の男性とも付き合ったことがない独身OL
・離婚した後の男性達の家事模様
・ホームレス
・登校拒否の少年
・ビデオの登場で仕事がなくなったネガ編集者(本書の出版当時は1999年)
・だめんず・うぉ~か~なタクシードライバーの身の上話
・ほぼホームレスのような生活を続け、妻子からも捨てられた芥川賞作家
・秋口になるとうつ病に襲われる看護師
・夢に向かって徒手空拳に頑張る女優志望
・嫉妬という感情に振り回され、年を偽り夫にテレクラで電話をかける妻
とまぁ、単純に文字で記してみると、これだけでも行間から哀愁がにじみ出ているのがわかると思う。笑
現に本文を読んでいても、筆者の筆致自体は適度な距離感を保ったルポルタージュとしてまとまっているのだが
客観的に見ても、抑えきれぬ哀愁感が漂っていた。
1つ、違和感を感じたのは、筆者はあとがきで
「人は劣等感に苛まれた時、どのようにして自尊心を回復するのか」というのが
本書のテーマの1つだと書いてあった。
僕個人の意見としては、そもそも当事者たち全員が
必ずしも自尊心を回復する必要はないと思った。
自尊心を回復するということは、かつての位置から、自尊心が傷付けられることによって下へと下降して行くからこそ。
確かに、はたから見ても、又当事者自身も「キツイ」と思っている人も本書の中にはいた。
しかし、例えば本書の中で出てくるホームレスの人のように、常に、自分のいる状況を楽しんでいる人もいるのだ。
本質的に言えば、自尊心を傷つけられる出来事、というものはなくて
「自尊心を傷つけられたと思うこころ」があるだけなのだ。
1つの出来事や境遇から、どのような解釈をするのかは人それぞれであり、
はた目には悲惨な状況にある人でも、当事者自身はその境遇自体を楽しんでいる可能性もあるのだ。
もはや「いやぁーこれでまたワシの人生に1つ箔が付きましたわぁー!ぐぁっはっはっはっ!!!」
とか思ってる可能性も0とはいえないだろう。
【自分のモノサシで、他人の人生をはかろうとしないこと。】
これは本書で得られた1つの教訓だった。
多くの普通の人は、この書籍を読んで、何を思うのだろうか。
自分よりも下の階層の人の話を読んで、他者と自分を比べることで安心するのだろうか。
もしくは、自分と同じ普通の人も、懸命に日々を生きていることを知り、活力が湧いてくるのだろうか。
僕はこう思う。
よく、「日本を支えているのは(支えてきたのは)、無名の、数多くの、目には見えない、サラリーマンのお父さん達だ!」
って言われるけれど、まさにそのとおりだと思う。異論はない。
華がある人生、ない人生、などというものは誰が決めるのか。
日々、小さく地道な努力を重ね、愚鈍ながらももがき続ける人こそ、宝石箱のような人ではないだろうか。
これは毎日を単純作業の連続や、思考停止して生きるということとは違う。
愚鈍ながらももがき続けるということは、日々進化しているということだ。
ホワイトカラーとかブルーカラーとか、そういう垣根はもはや関係ない。
汗を垂らすのが脳内であろうが額であろうが、進化していればどちらも素晴らしいのだ。
エアコンの効いたオフィスで悠々と作業をするホワイトカラーを、工場で働くブルーカラーは批判し、
工場で額に汗を流すブルーカラーを、「肉体労働」と一言で侮蔑するホワイトカラー。
そんな構図は悲しすぎる。もはや垣根などないのだ。
これは職種の形態にだけ言えることではない。
人間としてのあり方にも言えることだと思う。
愛を持って進化している人間に、どちらが優っているとか、劣っているとか、関係ないのだ。
先日見た坂の上の雲というドラマの中では
ひたすらナレーションで、「明治というオプティミズム(楽天主義)の時代~~」ということが繰り返されていた。
けれども僕が思うのは、時代も境遇ももはや関係ないのだ。
どんな時代に生きようとも、どんな境遇に置かれようとも、どんな出来事が起ころうとも
常に、自分のこころは、オプティミスト・楽天家・楽観論者であるべきなのだ。
ここで、僕がこの記事を書こうと思ったと同時に、激しく心を打たれた
本書内の一節を紹介したい。
普通の人の一人、ホームレスの片山さんという人と筆者のダイアローグである。
「路上生活者になると最低のところまで落ちたって感じがしてみじめにならない?」私は聞いた。
「ならない。何かあってガックリくると何もやりたくなくなっちゃう人間って多いけど、俺はそれを逆に考えるんだよ。
何でもできるようになったんだって。何でも楽しくやるんだよ。ホームレスになって三年目になるけど、今は毎日目標があって楽しいよ。
一日三千円なら三千円稼ぐまで帰らない、そうやってるから毎日が希望でね。楽しくってしょうがないね。
サラリーマンはもうイヤだね。日ゼニで暮らしていくよ」片山は陽気になっている。
「目標を持って、自分が楽しければいいと思っている」片山が言う。
「そういう考えはいつ頃から持ってるの?」私が聞いた。
「ホームレスになってからだね」
この文章を読んでアナタは何を思うだろうか?
人間には環境適応能力というものがある。
これは恐ろしいパワーを秘めていて、現に片山さん自身も、48歳の時にホームレスなり
最初は抵抗感があったものの、2ヶ月目には「ああ、なんかこんなもんかなって。慣れるんだよね。」と言っている。
「ホームレスは絶対に嫌だ、なりたくない、社会の底辺だ。」と、ホームレスになったことのない人たちは言う。
だが、それはあくまで未経験が故の主観に過ぎず、本当のところは
ホームレスがいいかどうかは分からない。のだと思う。
余談だけど、最近キングコングの西野さんの後輩の芸人さんが、
自分のことを「SNSホームレス」という肩書きを名乗って、自分のホームレス生活をSNSを通じて実況していたことを思い出した。
こういうのを見ると、もはやホームレスさえも選択肢の1つと思わざるを得なくなってくる。
冒頭で普通という単語を「巷にあふれる多くの人」という定義で使うとしたが、
やはり、今日においては「普通の人」などいないと思った。
1人1人がその人の人生の主役であり、
街ですれ違う人1人1人にストーリーがあって、様々な悩み葛藤、紆余曲折を経て今を生きていると思うと、
感慨深いし、そういう人間の集合体が社会を構築しているのだ。
だから僕はあえて、改めて声を大にして言いたい。
「普通サイコー!!!」
PS
ここに1人の、夢を追いかける普通の人を紹介したいと思います。
以前YouTubeでたまたま見て、不覚にも泣いてしまった、あるオジサンの動画です。
PPS
自分のモノサシで相手をはからない大切さを、
わずか1ページで表した秀逸な漫画を以前ツイッターで発見しました。
【1ページマンガ】は?コレ知らないの? pic.twitter.com/8dm0HEwJVP