理性なんていらない。お前はちょっと頭で考えすぎるところがあるから、もっと馬鹿になろう。馬鹿になるコツ、教えてあげる。酒入れろ。ちょっとアルコール入れて調子づいたくらいが、お前には丁度いい。その勢いのまま、やっちゃえ。いいか、なんどもいうけど、人生には無駄なことなんて何1つない。あるとすれば、やらなかったと、後悔することだけだ。輝く目をしている人は、みんな挑戦者だ。それは、何に挑戦しているのでもいいんだ。何か、別に何でもいい何かに、自分が夢中になっている大人は最高だよ!いいか、人生は短い。刹那的な快楽ばかり追い求めて本質を忘れるな。人は死ぬ。人は変われない。でも、環境なら変えられる。サァ、あとはお前次第だ。このまま何事もなかったかのように、ちょっといい話を聞いて賢くなったような気がして済ますのか。それとも、本当に本気で人生を変えにかかるのか。いや、人生を輝かせにかかるのか、選択するのは、いつもお前だ。やなぎ しゅん
この文章を書いた後すぐに、僕はこの前京都、大阪、伊勢の方に旅に出た。
最近自意識の膨張と収縮ということについて考えることがある。
人はある一定の瞬間において「これが真理だ!」と思えるような瞬間があっても、時間とともにその真理は忘れ去られてしまうことは多々ある。
自分がエネルギッシュな状態のときに自分を肯定するのは簡単な話で、自分が殻にこもっているときも自分を肯定できるかどうかが重要なことなんだと思う。
翻って自分のことを考えた時に最近頻繁に思うのが「もうそろそろ家を捨てたほうがいいな」ということである。
端的に理由を述べると家にいると「生」が担保されすぎているのだ。
これはお遍路をしている時に学んだことの1つでもあるのだけれど、「生」が担保されすぎていると逆に「生」が遠くに感じられてしまうのだ。
空海さんは山にこもって世捨て人のような生活をしている修験者達に、俗世で悟ってこそ意味があるんだよ、と説いたらしいが、まさにそのとおりであると思う。
「死」が近くにあるからこそ「生」を感じられる。生を感じられなくなってある一定の閾値まで達した自意識は、破裂して自分を外の世界へと連れ出し、そして以下無限ループみたいな感じが今の自分なんだろうと思う。一つの場所になかなか留まりたくない性なのかもしれない。
最近見返したクラウドアトラスという映画のなかでテーマになっていた「カルマ(業)」について考えると、自分という存在は他者に知覚されてこそ成り立っているものであり、自分を知覚してくれる他者がいなければ自分とは存在しないのと同義なのかもしれない。
そしてカルマを信じるのであれば、いま、ここにいる自分という存在はポンッと生まれでたわけではなく、自分ちの家系図とかを見たことのある方なら分かると思うけれど、脈々と受け継がれてきた人の意志によって紡がれた存在であることが分かる。
そう考えると、人の魂とは、言葉・行動によって不滅のものになるのかもしれない。
別にカルト的な話をしたいわけではなくて、いま、お前という存在は他者に知覚されてこそ成り立っているだけではなくて、営々と受け継がれてきた人の意志の集合体であり、だからこそ魂に嘘をつかない胸を張った生き方をしようぜ!ということが言いたい。
その瞬間は、人それぞれ、不意に訪れるのではないだろうか。
大切な人を亡くした時。
自然と調和し一体感を感じている時。
通勤・通学の最寄り駅をなんともなしに乗り過ごして、終点まで行ってしまった時。
きっかけはなんであれ、本当は、自分のするべきこと、したいことは自分の魂が一番よく知っているのだと思う。
だからこそ自分の内側に耳を傾け、その一瞬のこころの“ざわつき”を見逃してはいけないのだと思う。
一度見て見ぬふりをしてしまった“ざわつき”は再び現れてくれるとは限らない。
一つ一つの選択の上に人生は創られる。
一般的な「世界」というものはなく、人は自分の観たいような世界しか観ない。
その世界がモノクロであれ、カラフルに彩られているものであれ、一つだけ言えることは「旅に出よう」ということだ。
それは直接的な意味での旅ではなく、こころの旅である。
大人になるにつれて、子供の頃は全てのことが「感じる」ことで学んでいけていたものが、次第に、「考える」ということでしか学べなくなっていっていることに気付く。
だからこそ考えてもしょうがない。
とにかく、旅に出ることが大切なのだと思う。