【徒歩日本一周】26歳の思春期【誕生日】

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今年は旅先で誕生日を迎えることになった。北海道は帯広にある「帯広リゾートホテル」という所の一室でこの文章を書いている。帯広にある友人宅に3日滞在した後、いざ釧路に向けて歩き始めた夜、たまたま通りかかったお店のお客さんに呼び止められた。

「お兄さん旅してるのー!?」

「あ、はい!そうですー!」

「えー!よかったら飲んでけばー?」

「え!いいんですか!ありがとうございます!」

基本的に「No」という言葉は知らないので、提案には秒速で乗る。

そんなこんなで飲み会に割り込み、たまたま隣の席に座っていた方の家が家族経営のホテルだということで泊まらせて頂けることになり、今日でなんと1週間にもなる。

毎日温泉と岩盤浴入り放題という風呂好きには天国のような環境に甘んじていたら気付けばあっという間に1週間もの時間が流れていた。

旅をしていると日付感覚もなくなるので自分が今日誕生日だということに最近気がついたほどだ。

25歳から26歳という数字の移り変わりに対しては特に何も感じない。ただ年齢は毎年1つずつ増えてはいくが、心は思春期の頃を延々とループしているような感覚になる時がある。

好きなことを、やりたいことを、その瞬間に、全力でやる。

子どもの頃は当たり前に出来ていたことが、大人になるにつれて、難しく考えたり、環境を言い訳にしたりして出来なくなってくる。

でも自分が思っている以上に、人間は丈夫だ。いつだって自分を足止めさせているのは自分だし、自分のことを裏切るのは自分だ。自分を信頼して1歩踏み出してしまえれば、あとは案外どうにかなるものだ。だから自分を信頼することだ。他の誰でもない自分なんだ。結局のところ自分の人生の舵を切るのは自分しかいないんだ。自分が自分のことを信頼するところから始めなければ、と思う。

とは言えこんな生き方をしていると、外野から将来のことについて心配されることもある。心配してくれるのは優しさとしてありがたいけれども、端的に言って余計なお世話だ。お前はお前の人生を生きろ。俺は俺の人生を生きる。他人を心配するということは他人を信頼していないということだ。他人も一人の人間だ。人間を見くびるな。他人の人生を心配するよりも、自分の人生をしっかりと生きることに集中したい。そして心配をするよりも、相手がその人自身をしっかりと生きられるような選択肢を提示出来るような人間になりたいと思う。

――日本一周を始めてから、色々な人の家にお邪魔をし、様々な人間の「日常」を垣間見た。何時に起きて何時頃寝るのか、朝ご飯は食べるのか昼と一緒なのか、一日がどういうルーティンで回っているのか、タバコは吸うのか、夜お酒は飲みに行くのか、好きな人はいるのか、結婚はしているのか、同棲しているのか、どういう人生があって今そこにあなたはいるのか。

誰しも思春期の頃には自分という人間の存在を強烈に意識する。意識しすぎる。それ故に、自分という存在は特別で、「自分とその他大勢」という風に人間をカテゴライズしてしまったことがあるかもしれない。

でもある瞬間に、その他大勢であるはずだった他人も、その人自身にとっては揺るぎ無い人生がある一人の人間なんだということに気付く時が来る。(自分と同じように一人一人物語を持った個人が無数にいる。)一旦それに気がついてしまうとそれ以降は「自分とその他大勢」というカテゴライズは出来なくなる。

日本一周の道中、たくさんの人と出会い、様々な方の生活に交じる中で、その人の日常、人となり、ひいては人生が見えてくることがあった。そういう経験をする度、改めて、道ですれ違う人、一人一人に物語があり、その物語同士がくっついたり時には離れたりしながら移ろいでゆく、そんな物語の集積所のような場所が世界なんだなぁとしみじみと思う。

26歳になってそんな思春期の少年のようなことを考えながら、ある漫画を思い出していた。

うめざわしゅんさんの「パンティストッキングのような空の下」だ。この短編集の中に収録されている「唯一者たち」という物語が、まさに今つらつらと書いてきたような気持ちをそのまま代弁してくれているようなお話で、久しぶりに読み返したくなった。

旅はまだ続く。これからもたくさんの出会いがあるんだろう。僕は自分のすべきこと、やりたいことに、淡々と人生を張っていくのみだ。

変に大人になる必要はない。それよりも更に子どものように、踊り狂う一年にしよう。

26歳スタート!

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