そんなに稼いでどうするの?

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タイトルだけを見ると、お金を稼ぐことを一方的に忌み嫌っている印象を受けるかもしれないが

決してそうではない。

ただ、むやみやたらにお金を稼ぐことに意味はあるのだろうか。

なぜ、必要最低限以上のお金を稼ぎたいと思うのか?

個人的なことを述べると、

一昔前の自分のお金を稼ぐ理由は、

【お金を稼ぐことにより、お金が全てではないという虚無感を味わうため】であった。

具体的に言うと、例えばフェラーリは本当に、

値段に見合うだけの価値があるのか実際に買ってみてから判断するだとか、

高級時計を実際に買ってみると見える世界は変わるのかとか、そういう類のものだ。

自分でも、「あーやっぱりこんなもんか」という虚無感に襲われることは、薄々予想はしているものの

妄想の世界で物事を判断するのではなく、実際自分で体験してみて味わいたかったのだ。

そして、実際にそういった類の経験をすることにより、

自分が発信する言葉に背景情報が加わり、重みが生まれることも期待していたフシがあった。

ただ、今ではその願望はもうなくなっている。

なんでかは忘れた。

単純に、一種の虚無感の獲得を目標にすることに嫌気が差したのかもしれない。

誤解しないで欲しいのは、これはあくまで価値観の話で、

決して、今まで述べた理由が悪いと言っているわけではない。

お金を稼ぐ理由なんて、それこそ千差万別で、所謂“べき論”なんてものは存在しないであろうと思う。

その上で、現時点で僕自身の「必要最低限以上のお金を稼ぐ理由」というのは特にない。

個人的には、内的充足感を満たすために仕事をして、それに付随するものがお金であり、

仕事を通しての影響力の輪が広がっていくにつれて、収入も上がっていく、というだけの話である。

自分の、ひと月にかかる最低コストを把握したら

なんかそれ以上お金を稼いで、どうこうしてやろうという気持ちは特にない。

勿論、資本主義を生きている間はお金はあるには越したことがないし、

最低限文化的な生活を送るため、また、自己投資のためにある程度は欲しいけど、

身の丈以上の散財とかはする気が起きない。

つまり、外面的充足感<<<内面的充足感なのである。

そして内面的充足感を満たすための手段が、仕事であるのだ。

京セラの稲森会長が著書「生き方」の中で

「人間は仕事を通して魂(人間力)を磨いているのである。」と言っていたけれど、

仕事が内面的充足感を満たすのに、十分なものであるのならば

つまり情熱が傾けられる仕事であるのならば、この言葉は真理である。

というか稲森さんは、

「どんな仕事でも情熱を持ってやることは可能であり、本来仕事とはそうあるべきなのだ。」

的なことも言っていたっけ。

まぁ、そんなこんなで、僕自身の

必要最低限以上のお金を稼ぐ理由なんてものは特にない。

そして、お金を稼ぐ理由の変化とともに、個人的な【成功の定義】も変わった。

以前までの僕の成功の定義とは

【時間的自由・金銭的自由・精神的自由を手に入れること】としてきたのだが、

今では、

【常に、内面的な充足感を満たしている状態】である。

時間的・金銭的・精神的自由を手にしても、心が貧乏な人は多いと聞く。

上記の自由を手にしても、愛されたい人に愛されていなかったら、人間は不幸に陥りやすいと思う。

だからもっと根源的な幸せである、内面的充足感を、常に満たしている状態が最上だと、

“現時点での価値観”では思っている。

※あくまで現時点であり、これもまた時間とともに変化するかもしれない。

「時間的・金銭的・精神的自由も、突き詰めて考えれば、

内面的充足感を満たすための“手段”にしかすぎないのではないか。」

そうやって考えられると楽だ。

別に必ずしも大金を稼ぐ必要などはない。

稼ぐ理由もないのに、無理して稼ぐと歪(ひずみ)が生じて、かえって人間を不幸にすると思う。

これは別に、お金を稼ぐことから逃げるために言っているのではない。

勿論、お金を稼ぐことによる、メリットもたくさんあることは承知している。

個人的に素晴らしいなと思うのは、影響力の範囲を広げられることだ。

やはり資本主義という仕組みの上では、お金というツールは大いに武器になる。

そしてその武器を使うことで、自分の影響力の輪を広げることが出来るのだ。

僕は影響力がある人には、ある人なりのノブレス・オブリージュ(持てるものの義務)なるものがあると思っている。

福沢諭吉も、著書「文明論之概略」で述べていたが、

影響力がある人間には、私徳を公徳に、私智を公智に変えることが出来るのだ。

私徳・私智とは私(わたし)の徳・智恵という意味であり、

その徳と智恵が及ぶ範囲はせいぜい個人の範疇に留まる。

一方、公徳・公智とは公(おおやけ)の徳・智恵という意味であり、

その影響の範囲は遠くにまで及ぶ。

お金を持つメリットの1つは、この公徳と公智を活用できる点にあるのだと思う。

そしてそれを活用する際には、きちんとした倫理観に従うことが絶対条件だと思う。

そうでないと、それはただの洗脳になってしまう。

さて、先ほど、無理に稼ぐとかえって不幸になる人がいる、と述べたが

お金というものは、往々にして人間の本性をくっきりと浮き彫りにさせる。

だから、大金を持った途端に人が変わるというのは、本来はありえないことなのだと思っている。

繰り返すが、お金は人の本性を浮き彫りにさせるだけなのだ。

ということは、お金を持って変わる人というのは、

お金を持つ前から、そういう本性を持ち合わせていたというだけの話。

上手くまとまらないけど、そんなことを思ったよよよ。

上手くまとまらないから、最後はウォーレン・バフェットのクォートで締めるよよよ。

「私の知り合いの億万長者は皆、財産を持ったからといって豹変することはなく、逆に生来の特質が強調されている。

貧乏な唐変木が巨万の富を築くと、億万長者の唐変木になるだけなのである。」

PS

ちなみに、冒頭で述べたような虚無感を味わいたいのであれば、

別に高級品を購入しなくとも、今は数多くのタイムシェアビジネスが存在しているので、

それらを上手く利用し、“レンタル”という方法で味わうことが出来る。

フェラーリと高級時計とかを1週間借りて、色んなとこに出かけてみればいいのだ。

それなら、今すぐにでも出来る。無理に買う必要はない。(笑)

“所有“という概念はレンタルの延長線上に存在しているのだから、

レンタルの時に味わえないことが、所有した途端に天から降ってくるようなことはないであろう。

ちなみにこれは完全に余談だが、僕も当時は「見える世界が変わる」という幻想を正当化し

定価200万円ほどの高級時計を購入した事があるが、正直言って何も変わらなかった。

しかし当時は何かにつけて、

「これは時計から得られる恩恵だ」と、正当化していたのだから恥ずかしい。

前もこの記事でチラッと書いたが、

自分をいかに取り繕ったとしても、自分の器以上には決してならないのだ。